壊れる日

■2

 獄寺のマンションを出てしばらく走り、後ろから獄寺が追いかけてくる気配のないことを確認してからやっと、綱吉は大きく息を吐いて歩き出した。
 走ったせいばかりでなく胸がドキドキして苦しい。獄寺に弄られた耳と胸ばかりか腹や背中までもが熱くて、そこから全身が火照って仕方なかった。
「……もう、何なんだよ…!」
 やり場のない感情が渦巻いて、綱吉は石組みの塀を蹴りつける。
「ったあ……」
 勢いに任せたせいか微妙に狙いが外れて、蹴りつけた衝撃が足裏から膝にひびいた。綱吉はうめき声をあげながらその場にしゃがみ込む。
 しばらく痛みが引くまでじっとしていると、辺りが住宅街の割に街灯がぽつぽつあるだけで薄暗いことに気が付いた。いつもは獄寺が送ってくれていたので気にも止めていなかった。急に先週観た映画のゾンビを思い出して、その恐怖感が綱吉を立ち上がらせる。
(ここは日本でアレは映画。作りもの!)
 何度も自分に言い聞かせると、暗がりは怖いがどうにか足は動き出した。
 身体の熱は残ったままだが、少し冷静になった頭で考える。獄寺はきっと綱吉が怒って帰ったと思ったに違いない。家まで送ると言いかけた獄寺を無視したばかりか、文字通り逃げ帰ったのだから。
 耳を囓りたいと言った獄寺に、綱吉は悩んで考えて譲歩して許した。それも少しだけと約束したはずが守られず、予想外のことまでされてしまったのだから、綱吉を動かした感情は怒りのはずだった。
 けれど、よくよく考えてみると一番当てはまる気持ちは驚きで、怒りよりも混乱と恥ずかしさで逃げるしかなかったと言うのが妥当だった。
 そもそも綱吉は獄寺に耳を囓られ胸を触られても、驚きはしたが嫌だとは思わなかった。何故そんなことをするのか、獄寺の気持ちがよく分からない不安はあるが、獄寺なりに友達として(例え方法が間違っていたとしても)綱吉との距離を縮めようとしていたのかもしれないと思うと、飛び出してくることもなかったのではないかと自分の余裕の無さを反省する。
 しかし、あのまま部屋にいた場合、ムードに流されて何かとんでもないことが起こってしまいそうで、恐ろしかったのだ。
 例えば、獄寺に耳以外の場所を囓らせて下さいと言い出されたりしたら――。
 綱吉は耳以外で囓りやすい所ってどこだろうと考え、獄寺の唇の感触を思い出した。見た目よりも柔らかだった唇はきっと、煙草の味がするに違いない。
 獄寺の顔は同性の綱吉が見ても文句がないほど整っている。目つきの鋭さに加え薄い唇が性格の苛烈さを物語っているが、だからこそ綱吉にだけ向けられる笑顔の輝きはクラス内外の女子をときめかせている。その獄寺の唇に触れられていたのだと思うと、胸がざわついて落ち着かなかった。
 綱吉は無意識に自分の唇に触れる。不意に背後から抱きしめてきた獄寺の熱を思い出し、幻聴が聞こえた。
『……十代目の唇、可愛いですね。囓ってみてもいいですか?』
(それは囓るって言わない、キスだよ!)
 綱吉は慌てて手を放し心の中で突っ込んだ。
「ええ? オレ獄寺君とキスしたい訳? キスされるかもしれないとか考えるなんてオレの方が変だよ!」
 思わず声に出して、綱吉は狼狽えた。暗い夜道をとぼとぼ歩きながら深いため息を吐く。自分がこれほど自意識過剰だとは思わなかった。
 獄寺は綱吉以上に「友達」の距離を上手く掴めない。対人スキルの低い者同士が藻掻くから余計にギクシャクしてしまうのだ。山本がいれば獄寺は部下で右腕というスタンスを見誤らない。もめことが起こったとしても、綱吉にとっては予定調和とも言える想像範囲内だ。
(……そうだよ。オレ何心配してたんだろう。獄寺君はオレのこと「十代目」って、自分のボスだと思ってるんだ)
 いつも綱吉に尽くし綱吉を守り綱吉を大事にしてくれている獄寺は、綱吉が許したから触れてきた。綱吉が嫌だと言えば無理強いなどしてこない。
(それなら逃げなくても良かったんだ。獄寺君がとんでも無いこと言い出したって、ちゃんと嫌だって、――ボ、ボスにそんなことしていいのって言えば……)
 そうすればきっと、獄寺は土下座する勢いで綱吉から離れるだろう。
 結局、一番の問題は。
 綱吉が嫌だと拒める自信が無いことだった。元々流されやすい性格な上に、リボーンに無茶苦茶な課題を突きつけられ、したくないこともやらされたりしているせいで常人より諦めが早いと言うか、多少のことなら別に良いかと受け入れてしまいがちだ。少なくとも耳を囓られたり胸を触られても平気なくらいには。
 平気と言っても全くの平常心ではなく、獄寺の声や身体の熱に反応して自分でもおかしいと思うほどドキドキしたのだが。
(……オレ、獄寺君が好き……なわけないよね)
 昔は苦手だったがその頃から嫌いではない。迷惑を掛けられても最終的には獄寺君だから仕方ないやと思えるほどに情もある。けれど、それは恋愛感情とは絶対に違うと言い切れた。
「だってオレ、京子ちゃんが好きだし」
 呟くと思いの外、住宅街に声が響いた。綱吉は慌てて口を押さえ辺りを見回す。幸いどこにも人気はなく、このささやかな恋心は誰にも(既にリボーンや一部のクラスメイトにはバレバレだが)知られていれないことに安堵した。
 綱吉は一通り自分の気持ちを確認すると気が楽になった。今後獄寺との間に同じことがあっても、その時は上手くかわせるだろう。そしてきちんと、「友達とはかくあるべし」と、自分なりのスタンスを説明して理解して貰えるに違いないと思った。




 月曜日。綱吉が玄関を出ると獄寺の姿は無かった。週末の出来事を綱吉は獄寺のちょっとしたおふざけの暴走として気持ちに決着を付けていたのだが、獄寺は綱吉と顔を合わせるのが気まずいのだろう。綱吉もあれからフォローの電話を入れなかったし、獄寺からはコンタクトもなかった。割り切ったつもりでも忘れたふりは出来そうもなく、正直獄寺と会ったらどんな顔をして話をすればいいのか分からなかったので、妙な寂しさを感じつつもホッとした。
 学校に行く途中、山本に会った。
「ここらで会うなんて珍しいね。朝練は?」
「今日は監督の都合でねーんだ。ツナこそ珍しく獄寺と一緒じゃねーのな」
「……うん」
「英語の宿題やったか?」
「うん。獄寺君に教えてもらった」
「んじゃ、後でノート見せてくんね?」
「いいよ」
 並んで歩きながらいつもと変わらない会話を交わす。学校に着いて綱吉がノートを渡すと、山本は礼を言いながら「ちょっと話があんだけどいいか?」と聞いてきた。綱吉はいいよと頷き山本について屋上へ上がった。



「ツナは好きな奴とかいんのか?」
「へ?」
 予想だにしなかった問いかけに、胸の鼓動が跳ね上がる。
 好きな奴――。一瞬獄寺の顔を思い浮かべ、違う違うと否定する。それは「綱吉をボスとして好きな奴」だ。
 綱吉が好きなのはクラスどころか学年一可愛いと評判の笹川京子。勉強も出来て気だても優しい、ちょっぴり天然な女の子だ。ダメツナとバカにされ友達もいなかった頃、不登校にならなかったのは京子の存在があったからだ。
 綱吉は京子の無邪気な笑顔を思い出し、ほんのり頬を染める。
「……うん。いるよ。片思いだけど。そう言う山本はどうなんだよ」
 笑いながらオレばかり聞かれるのは不公平だと咎めると、山本は照れ隠しなのかぽりぽり顎を掻いた。
「ん〜、オレさあ、ずっと野球ばっかで来たから、友達とか仲間とかそう言う好きなら多いって言うか、悩んだことねーんだけど、最近気になる奴がいて……。それが好きで気になるのか単に好奇心なのかよく分かんねーんだわ。正直こんなこと初めてだから……ちょっと本気で困ってる」
「コクればいいじゃん。山本なら相手は断らないと思うけど」
「ん〜〜どうかな」
 山本は屋上のフェンスに指をかけ、背筋を鍛える運動のように背中を伸ばす。
 綱吉は片思いの相手を追求されなかったので、自分もあまり聞かない方がいいのではないかと思った。けれど、いつもと違う妙に歯切れの悪い山本はむしろ聞いて欲しいようにも感じられた。人好きする山本が困惑するほどの相手というのにも興味があって、綱吉はいざとなったら潔く謝るつもりで話を繋いだ。
「……山本が好きな相手ってどんな人?」
「好きって言うか気になるのな」
「…クラスにいる?」
「いない」
「並中生?」
「うん」
「年上? 年下? 同い年?」
「年上」
「じゃあ、美人系? それとも可愛い系?」
「ん〜〜? 男に美人って言ってもいいんかな」
「は?」
「オレ、ヒバリが気になってんだ」
 綱吉はぽかんと山本の横顔を眺めた。
 ヒバリ。ひばり。雲雀。綱吉の記憶にいる該当者は並中に一人だけだ。
「……その人って、トンファー使う?」
 かなりアホな確認だった。トンファーなんて物騒な凶器、雲雀恭弥以外誰が使うというのか。
「うん」
「……そうなんだ」
(そりゃ、いくら山本が女子にもてて人気があっても悩むだろうなぁ……)
 何しろ相手は男で、風紀委員長でありながら不良の頂点に立つ恐るべき存在だ。群れる者も群れることも嫌いで、そのくせ風紀委員を使って並中どころか並盛町自体を支配しているとしか思えない謎の上級生なのだ。(そもそも本当に中学生なのかも怪しいと綱吉は思っている)
 綱吉は元々恋愛事情に疎い。一度京子にリボーンの死ぬ気弾の力を借りて告白したことはあるが、今のところお付き合いしたいだなんて大それた思いも無い。精々京子の笑顔を見ながら話をして、どこかに遊びに行けるくらい仲良くなれたらいいな程度の奥手だった。
 そのため山本が頼ってくれて嬉しい反面、どう言葉をかければよいのか分からない。
 取りあえず記憶の中にいる雲雀と山本を脳内で並べてみる。二人は背が高く和風系の男前同士で、山本はもちろん雲雀も見た目だけなら異性をときめかせる魅力に溢れている。
 穏やかで人好きのする山本と鉄拳制裁の雲雀では、どうしても山本の身を案じずにはいられないが、山本の鷹揚さが雲雀の棘を上手く包み込んでそれなりに上手く付き合っていけそうな気もした。あくまで綱吉の脳内におけるイメージの二人ではだが。
 それをどういう言葉にすれば的確なのか分からず、綱吉は山本と同じようにフェンスを掴み、うーんと唸った。
「……ツナはあんまビックリしねーのな」
「ビックリしてるよ? ヒバリさんだもん」
「男相手に気持ち悪いとかさ、ねぇの?」
 自嘲気味な山本に、綱吉は山本の口が重かった理由を今更のように知る。
「そんなの好きになっちゃったら関係ないよ」
「……そっか」
「うん。ヒバリさんを好きでも、山本は山本だし」
「ツナ…!」
「わっ!?」
 突然山本に抱きしめられて、綱吉は今日一番驚いた。長身の山本が上から覆い被すように頭や肩を包み込むと、小さくて非力な綱吉は抵抗もままならず受け入れることしかできない。
「……ありがとうな」
「山本……」
 小さく呟かれた声は震えていた。
「オレ、ツナに期待してた。ツナならヒバリを好きだって言っても、笑ったりバカにしたり気持ち悪がったりしないんじゃないかって。……でも、嫌われたらどうしようって不安もあって……」
「……うん」
 綱吉は山本の背中に手を回し、ぽんぽんと叩いた。
「誰にも言えなくて、でも、一人で考えてるとおかしくなっちまいそうで、」
「大丈夫。山本はちっともおかしくないよ。好きな人がいるっていいことじゃん。会えると嬉しいし話が出来たら楽しいし、笑顔なんて見られたら、一日ハッピーな気分になれるよ。その相手が山本にはヒバリさんだったんだろ?」
「……うん」
 綱吉は背中を叩く手を止め自分からも抱きしめる。自分よりも大きくて鍛えられた山本の身体がこのときばかりは小さく感じて、綱吉は大丈夫だよと繰り返した。
「てめえ! 10代目に何してやがる!」
 突然の怒声に目を向けると、息を切らして獄寺が駆け寄って来るところだった。
「10代目大丈夫っスか!? 野球バカに襲われるなんて…! オレが寝坊さえしなければ10代目をお守り出来たのに…! でもご安心下さい! この不埒者はオレがきっちり果たします!」
「ちちち違うよ誤解だって! やめてダイナマイトなんてしまってよ獄寺君!」
 今にも山本を殺さんばかりの殺気を放つ獄寺に、綱吉は全力でしがみつく。抱きつくと獄寺は真っ赤になって動きを止めた。綱吉が今のうちにと山本に目配せすると、山本は悪ぃと片手で合図して屋上から消えた。
 十分頃合いを見計らって離れると、獄寺は再び殺戮マシーン状態になったので、綱吉は両手でダイナマイトを持つ手を握りしめた。
「さっきのは、山本がちょっと落ち込んでたから励ましてただけだよ」
「でも! 真正面からぎゅって抱きしめられて……、おかしくないっスか? オレだってそんなこと許して頂いたことないっス…」
 後半は口の中でブツブツ言われたので、よく聞き取れなかった。
「友達だもん。フツーだよ」
「じゃあ、オレが落ち込んでたら10代目はオレにもああやって励まして下さるんスか!?」
 ダイナマイトを掴んだままの手で両腕を引き寄せられる。獄寺のぎらついた瞳は真剣で、余りの顔の近さに週末の出来事を思い出した綱吉は少し怖じ気づく。
「……う、うん。まぁ、多分……」
「それならオレも励まして下さい! 10代目と一緒に登校できなかった上に、あんなショック映像を見せられてヘコんでるんスよオレ!」
「そんな理由は嫌だ――!」
 丁度鳴り出した予鈴の音に、綱吉は「ほらもうバカなこと言ってないで行くよ」と、獄寺に腕を掴まれたままの状態で歩き出した。
 獄寺は納得いかないと不満げに唇をとがらせていたが、渋々ながらも付いてくる。
 綱吉は週末のことで獄寺と顔を合わせると気まずいと思っていたが、このアクシデントを期にいつもと変わらない態度を取れて気楽になった。




 山本から休み時間にノートを返された綱吉は、授業中、予習ページにノートの切れ端が挟んであるのに気が付いた。二つに折られた紙を開けると、山本の字でメッセージが書かれてあった。
『ツナ、今日はサンキュー。さっきの話はいずれ獄寺にもオレから打ち明けるから、それまでは秘密にしておいてくれ。よろしく』
 綱吉は山本の席へ視線を向ける。山本は綱吉がノートを開いた時からメモを読み終わるまで注目していたらしい。目が合うとウインクされた。綱吉は思わず頬を緩め小さく分かったの合図で頷いた。視線を戻し手の中のメモを最初の形よりも小さく折りたたむと、カンペンケースの中にしまい込む。
 みんなが憧れる人気者の山本から頼られ秘密まで明かして貰えて、綱吉は嬉しくて気付かなかった。綱吉と山本の遣り取りを、獄寺がどんな目で見つめていたかなど。



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