誰よりも君を愛す



■5

「隼人君、隼人君、朝だよ」
「あ…おはようございます沢田さん」
 身体を強く揺さぶられ、獄寺は目を覚ました。朝日を浴びたツナが視界に入る。獄寺は昨日の出来事を瞬時に思い出した。夜中、足の痺れで目を覚ました獄寺は、自分にブランケットが掛けられているのに気がついた。おそらくトイレに起きたツナだろう。なんてお優しい…と幸せを感じながら、痺れた足で床を這ってソファーにたどり着き、そのまま眠ってしまったのだ。
「……ねえ、高校って何時から始まるの?」
 ハッとして時計を見ると、早起きどころか綱吉を迎えに行く余裕もない。普段なら電車に乗っている時間だ。
「うわっ! やべぇ!」
 慌てて制服に着替え、顔を洗い歯を磨き髭を剃り髪を整えどうにか一通りの身支度を済ませる。朝食は抜いても身だしなみに人一倍気を遣うのは、愛する綱吉の前では格好付けたい男心だ。
「沢田さんすみません、オレ学校に行ってきます。夕方には帰りますんで、朝飯とか昼とか、ピザならそこにチラシありますから頼んで下さい。金はここに置いときますから」財布から万札を抜いてリビングのテーブルにのせ、TVのリモコンで抑えておく。
「うん、ありがとう」
 獄寺が慌ただしく鞄を引っ掴み玄関に向かうと、ツナはその後ろをちょこちょこ付いてきた。昨日あれほど一人にしないで欲しいと泣いていたツナが学校に行く事を許してくれるとは思わず拍子抜けしたが、また泣かれても途方に暮れてしまうので内心助かった。
「オレのことは秘密だよ?」
「はい」
「隼人君」
 背伸びしたツナに腕を引かれて少し屈むと、頬に柔らかい物が触れて離れた。
「はうっ?」
「行ってらっしゃい、気をつけてね」ツナがにっこり笑って手を振る。
「いいいいい、いってきますっ」





 学校に着くとSHRが終わった頃だった。
「10代目、おはようございます! 今日はお迎えに上がれなくてすみませんでした」
 教室に入るなり綱吉の元へ行くと、前の席の男と話をしていた綱吉は獄寺を一瞥し、「別に義務じゃないんだし気にしないでいいよ」と素っ気なく返してきた。
「話の途中でごめん。――そうそう、あそこで○○が××を…」獄寺がそれ以上の謝罪や会話をする隙がないようにするためか、綱吉は獄寺が来るまでにしていた会話をクラスメイトに振る。話題は昨日見たTVの話でたわいのない物だ。
 とはいえ、一度あるじの話を中断させた獄寺はもう一度邪魔をする事は出来ない。二人がその話題に飽きて会話が途切れるまで待つしかないので、自然と綱吉を独占している名前も覚えていないクラスメイトを睨みつける事になる。
「……オ、オレ、トイレ行ってくる」
 獄寺にガンつけられて平静でいられる者はそうそう居ない。綱吉と話をしていた男は会話の途中、不自然なタイミングで席を立った。
 空いた席の椅子の向きを変えて、獄寺は綱吉の正面になるよう腰をかける。
「10代目、昨日はすみませんでした」
 獄寺が深く頭を下げると、綱吉はやれやれと言わんばかりにため息をついた。
「……引っ掻き傷もないじゃん」
「は?」
「昨日、猫に襲われてるって言うから、オレ、外に探しに行ったのに……嘘だったんだ?」
 家電にかけた時出かけていたのは、獄寺からの電話に出たくなかったからではなかったのだ。
 綱吉の口調はぶっきらぼうだが、どこか拗ねた口調と視線を逸らした目元が可愛らしい。
「10代目…オレの事、心配して下さったんスか……」
「昨日、何してたの?」
「それは……」
 ツナの事は秘密だ。けれど、綱吉命の獄寺が綱吉以外を優先した理由を、どう説明すれば事が丸く収まるのか分からない。
「ね、ネコが……」
「言い訳はいいから。ホントの事言ってよ」
「…………」
 追い詰められた獄寺は椅子から立ち上がり、机と机の狭い隙間に潔く土下座した。
「申し訳ありません。あとで必ずご説明しますから、今は聞かないで下さい」
 授業時間までのつかの間、談笑していたクラスの空気がざわりとどよめいた。遅れてきた獄寺はクラスの女子生徒の視線をいくつも集めていたし、二人の会話から昨日獄寺が綱吉を怒らせるような出来事があったのだと、無関係な顔をした周りの者も聞き耳を立てていた所だった。
「獄寺君やめてよ。約束、忘れたの?」
 冷たい綱吉の声に血の気が引いた。獄寺にとって最大級の謝罪を綱吉が苦手にしている事も、人前ではしないと誓った事も、瞬間忘れていた。
「すすすすすみません、オレ、」
「もう授業が始まるから、自分の席に戻った方がいいよ」
 至極もっともな事を言われて、獄寺はすごすごとその場を離れ自席についた。身長180センチ近い獄寺が背中を丸め、涙目の落ち込んだ顔で座っていると、そこから暗い空気が広がって重苦しささえ感じる。
「……沢田君と喧嘩したの?」
 隣の席の少女が堪りかねて問いかけたが、獄寺は何も答えなかった。面倒だとかの前に、今の獄寺には他人の言葉の意味を考えられるほど余裕がなかった。
 いっそ正直に告白してしまおうかとも思ったが、約束を破ったせいでツナの身に良からぬ事が起こったら、獄寺は後悔どころでは済まない苦しみを一生抱えるだろう。とは言え名案も浮かばず、当然まだ怒っている綱吉の機嫌を宥める手も思いつかなかった。せめて学校にいる間に機嫌を直して貰わなければ、一緒に帰ることも別れ際のキス(手の甲にだが)も出来ない。キスが無理なら綱吉を抱きしめたい。それが駄目ならせめて手を繋ぐだけでも…と、獄寺は願いのハードルを低くする。綱吉とのささやかなふれ合いは、獄寺にとって食事以上に大事な活力の源だった。
 恐る恐る綱吉の様子を伺うと、あるじは獄寺の事など無かったかのように別の生徒と話をしていた。教室のざわめきと端と端に分かれている席の関係上、耳のいい獄寺にもその会話は聞き取れない。けれど、綱吉の柔らかい微笑みが絶えないので、きっと楽しい話題なのだろう。
 恋人の獄寺には見せてくれなくなった笑顔を、名前も知らないクラスメイトがいとも簡単に享受している不条理。綱吉の話し相手になっている男は、綱吉の笑顔にどれだけ価値があるか分かっていないというのにだ。
 胸に刺すような寂しさを感じ目を閉じる。せめて記憶の中にいる綱吉に癒されたいと思ったのだが、獄寺の脳裏に咲き誇ったのはツナの微笑みだった。
 獄寺は慌ててツナの笑顔を追い払う。ドキドキと高鳴った胸の鼓動は、驚愕による物だと言い聞かせた。けれど、自分の心が揺れている自覚はあった。
 ツナはかわいい。幼い姿もさることながら、気持ちのままに笑って泣いて、獄寺の好意を悦び、言葉だけでなく行動で感謝の気持ちを伝えてくれる。その上性経験が豊富なためか男心を惑わす言動を繰りかえされては、一度くらいならとそそのかす声に流されてしまいそうになる。
(……オレは、10代目を、10代目だけを愛してる…!)
 無性に煙草が吸いたくてポケットを探ったが、教室で吸ってはいけないと綱吉に言われた事を今度は煙草を出す前にかろうじて思い出した。どうせ遅刻扱いなのだし、高校の授業など獄寺にとって大した意味は持っていない。
 獄寺は教室を出ると屋上に向かった。



◇ ◇ ◇



 二人は綱吉の家から徒歩と電車で三十分ほどの高校に通っている。学校のレベルは程々と言ったところだが、リボーンが現れる前の綱吉ではとうてい入れなかったので、進学が決まった時、かつて綱吉をダメツナとバカにしていた者ほど素直に賞賛してくれた。
 学校の特徴として一番に上げられるのは女子の制服がかわいい事だろう。雑誌の「かわいい制服ランキング」では毎年県内トップスリーに入る人気だ。男女比は4対6で校則は緩く行事が多い、高校生活を楽しむためには手頃な学校なのだ。
 ちなみに同じ学校にはロンシャンも通っているのだが、クラスは別の棟になる程離れているので滅多に会わない。どこでもマイペースでひょうきんな彼は高校生活にもすぐ馴染んだようで、時々耳に入る噂にロンシャンらしいねと綱吉は苦笑していた。
 昔は山本が加わった3人組で行動する事が多かった。獄寺はいつでも綱吉と二人きりになりたいと願っていたが、あるじが楽しそうだったので煮えたぎる嫉妬心を押さえつけてどうにかやり過ごしていた。けれど、今になってみれば、その形が一番安定していたのだと分かる。
 獄寺は山本をウザイと思う反面実力を認めていたし、自分が綱吉の側にいられない時は山本がいれば大丈夫だと信頼もしていた。何より、山本の明るい屈託の無さは誰からも好まれ、山本が言うなら仕方ないと許して貰える人望があった。そのため獄寺がもめ事を起こしたり、綱吉が理不尽な事件に巻き込まれ多少なりともクラスに被害が及んだりしても、山本のフォローのおかげで大事にはならず綱吉の立場を守り続けていた。
 ちなみに現在、山本は県内屈指の進学校に通っている。中学三年の県大会でチームを優勝に導いた原動力として、いくつものスポーツ推薦の話があったというのに、恋人と同じ学生生活を送りたいがために、絶対に無理だと言われた偏差値さえ持ち前の努力と根性で克服したのだ。恋の力恐るべし。
 山本がいなくなり二人だけで行動するようになると、支障はすぐに現れた。獄寺は綱吉を独り占めできる悦びを隠そうともせず、綱吉に近づいてくる人間(男女、恋愛感情関係なく)に敵意を燃やし追い払う。なまじ獄寺の容姿や能力が人より秀でているのが災いして悪目立ちする上に、二人の関係を訝しがってか綱吉になかなか新しい友達が出来なかった。
 獄寺と綱吉の関係は、並中からの生徒ならば見慣れた物だが、初めての者には異様だった。何もかも常人以上で不良の獄寺と、全てにおいてせいぜい人並みで見た目も地味な綱吉とでは、友達と言うには不釣り合いだからだ。しかも獄寺は綱吉を「10代目」と呼んで付き従い敬語を話すとあって、一部では綱吉はヤクザの隠し子で、獄寺は護衛を任された舎弟ではないかという噂まである。――当たらずとも遠からじ。
 綱吉は高校を卒業したらイタリアに渡る心構えなのか(今でもマフィアになる気はないとリボーンに刃向かってはいるが)、高校生活を楽しもうと中学時代よりも積極的に他人と関わりを持とうとしていた。なので、とにかく普通の学校生活を送りたいと綱吉が言い出して、入学間もない頃、約束をさせられた。
 綱吉曰く、『もう中学の時とは違うんだから、すぐに切れてダイナマイト出したりしたら駄目だよ。人前で土下座するのもやめて。煙草も教室で吸うのは禁止。必要以外の喧嘩もしない事。オレ以外の人の話もちゃんと聞いて、オレが獄寺君以外の人と話をしてても邪魔をしない。先生には敬語で、女の子には優しい態度で接する事。分かった?』
 昔の獄寺なら心の思うままに行動し、綱吉もそれを仕方ないなぁと苦笑しながら許してくれていた。しかし、今は違う。例え恋人であろうとも、獄寺は常に自分の立ち振る舞いを意識して、感情を律しないといけないのだ。



◇ ◇ ◇



 屋上で一人煙草を吹かしながら過ごしていると、ニコチンで心の苛立ちや不安が抑えられたが、自分がいない間にあるじが不都合な思いをしたり不埒な者が馴れ馴れしく接していないかと、病的な執着心が落ち着かせてくれない。
 せめてメールでもと思いつき携帯を取り出そうとするがいつもの場所にない。どうやら慌てていたせいで家に忘れてきたらしい。
「……マジかよ」
 自分の間抜けぶりに脱力しながら二本目を吸い始め、獄寺は妙な事に気が付いた。昨日は綱吉にメールを送り風呂に入った後、携帯はリビングのテーブルに置いた。けれど、朝、金を置いた時はリモコンしかなかった。記憶違いかと思い返してみても、やはりリビング以外に置いた覚えがない。
 真夜中真っ暗な部屋で足の痺れに目が覚めて、床を這いながらリビングに入りソファーを這い上がったせいで、テーブルの上の物を床に落としたのかもしれないと考える。
 けれど、どことなく違和感を感じた。まるで視界に入っているはずの物が見えていない、そんなもどかしさを。
「……腹減ってっからか…?」
 頭が回らないのも得体の知れない感覚に戸惑うのも、血糖値が低いせいかもしれないと結論づけて、獄寺は屋上の壁に寄りかかる。
 空は青く、まだ午前中だというのに夏の日差しだった。
 

 サボリもそこそこに教室に戻ると、何故か綱吉の機嫌が朝より悪くなっていた。
 昼食の時間に二人きりになれば少しは綱吉の態度も軟化するだろうと、獄寺は二限目からの三時間は声をかけるのを我慢して、昼休みになるやいなやあるじの元に馳せ参じた。けれど、綱吉は獄寺の顔を見ようともせず、教室を出て行ってしまった。へこたれず獄寺が追いかけると、走って逃げられた。
 今まで何度もあったいわゆる痴話喧嘩では、そこまで拒否られたことはない。まず第一に学校では人目があるので、綱吉は渋々ながらも獄寺が側にいる事を許してくれていた。いつも綱吉べったりな獄寺が一人でいると、無駄に目立ってしまい綱吉の方にまで余計なとばっちりが来るせいだ。
 例えば、異性関係だとか。
「……一時間目、10代目に何か変わった事がなかったか、覚えてねぇか?」
 購買で昼食を買い教室に戻った獄寺は、隣の席の少女に問いかける。途端に周りの女子達からきゃあっと黄色い歓声が上がり、問われた少女は頬を染めて首を振った。
「い、一時間目は自習だったから、みんな騒がない程度に遊んでて、沢田君も普通だったと思うけど…」
「ふーん……サンキュ」
 獄寺が不遜な態度ながら礼を言うと、再び少女達から嬌声が上がった。獄寺に質問を受けた少女を取り囲み声を潜めて盛り上がる。やっぱりそうだよ、違うって隣だから、だってこの前も……。
 なまじ聴覚が良いせいで嫌でも会話が耳に入ってくる。中には獄寺をじろじろ観察しながらこれ見よがしに囃し立てる者もいたが、獄寺の意識は教室から離れ恋しい人の事ばかりになっていた。もともと獄寺は綱吉一筋なので、どれ程可愛い少女から秋波を送られてもウザイとしか思えない。
 腹ごしらえも済ませた獄寺は、あるじを捜して校内を彷徨う途中、ロンシャンに出くわした。
「あっれ〜? 獄ちゃんおひさ〜。今日は沢田ちゃんと一緒じゃないんだ? あ、もしかして沢田ちゃんとケンカしちゃった? いっけないな〜。獄ちゃんすぐ問題起こすから沢田ちゃんだってガマンの限界ってあるよね〜」
「うっせーバカ! 勝手にてめーの思いつきをさもホントみてーに言ってんじゃねー!」
 ニコニコ顔のロンシャンに悪態を付いて、獄寺はロンシャンとは逆の方向へ歩みを変える。ロンシャンは装飾品をシャラシャラ鳴らして小走りにやってくると、獄寺の隣を歩き出した。
「それが思いつきじゃないんだよねー。沢田ちゃんさっきまでオレといたんだよ」
「10代目がてめぇと?」
「沢田ちゃんがお昼一緒にしようだなんて初めてだから、オレピンと来ちゃった。これは獄ちゃんとケンカしたんだなって。オレって名推理? 探偵になれちゃうかも?」
 なにやら得意げなロンシャンの態度が一層苛つかせる。
「10代目は飯食ってどこ行ったんだ」
「知らないもんね〜」
 どうにもむかついて腹いせに殴ろうとすると、思いの外素早く逃げられ腕が空を泳いだ。
 獄寺は忌々しげに舌打ちすると屋上に向かって歩き出す。こうなれば綱吉が気に入っている場所を一つ一つ当たるしかないだろう。
「仲直りの方法、教えてあげよっか?」
「うるせぇよ」
 無視して足を速めてもロンシャンはしつこく追いかけてくる。
「ケンカにはスキンシップが一番だよ〜。抱きしめてちゅっとキスしてごめんねって言えば、きっと沢田ちゃんもすぐ許してくれるよ〜」
「はぁ?」
 獄寺は「オレの経験上かなりの高確率だから間違いないよ〜」と脳天気な言葉を続けるロンシャンを反射的に睨みつけたが、すぐに言葉の意味を理解して首まで真っ赤になった。とっさに周りを確かめたが幸い二人の会話を聞いていた者はいない。
「な、何言ってやがるッ」
 下らないと言い捨てるには自分で分かるほど声が上擦っていた。ほとんど一日で彼女から振られてるお前に言われたくないとか、オレと10代目は男同士だそんな男と女の関係に当てはめんなとか、なんでこいつはこんな事言い出したんだオレ達の事を知ってるのかとか、一瞬の間に色々な事を考えたが上手く言葉に出来なかった。
 真っ赤な顔で口をパクパクさせる事しかできない獄寺をよそに、ロンシャンは自分の言いたい事を伝えられて満足したのか「じゃあガンバ!」と、お前はいつの生まれだという獄寺の突っ込みを待たずにいなくなってしまった。


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□20070406up