真夜中の恋人たち


  ■5■


 放課後の図書室はかなりの利用者がいたが、皆本を読んだり隣同士で囁き合うくらいで、至って静かに時間が流れていく。
 机の端に席を取った遊戯はいくつか本を積み重ね、調べ物をしていた。普段マンガやゲーム雑誌くらいしか読むことのない遊戯にとって、図書室は場違いな空気がして余り利用したことがない。しかし、今の遊戯にとって頼れるところはここぐらいだった。
 連日に見た不可思議な夢の話は誰にも相談出来ない。ならばせめて気休めでもいいから、本で謎を明らかにしたかった。
 遊戯は目次を拾い読んでは本文へ目を通し、気になる部分をノートの端にメモしていく。だが、夢占いやフロイトの深層心理などを見ても、夢に現れた海馬や海馬との行為について納得する部分はあれど、子どもになっていた海馬や助けに入った幼い遊戯については、特にこれだと思える合致は無かった。
 むしろそういった本を調べるほど、夢の出来事が夢だとは思えない気がしていく。小さい頃の姿の自分と、幼い海馬が心を通じ合わせているとしか思えない昨夜の記憶は、願望が見せた夢にしては不可解だった。
 自分の記憶にない風景や匂い。いつ無くしたのかも覚えていないTシャツ――。
 現実世界において記憶を辿ろうとすればするほど、霧がかかったように思考が飛散する。
(……そういえばボク、小学五年生の時――、夏休みに入る前からの一〜二ヶ月ぐらいだったかな……? 記憶が無いんだよね…。気がついたら病院だったから変だと思わなかったけど…。もしかしてそれが何か関係してるのかな…?)
 今でも同級生より体が小さい遊戯は、幼い頃は何かと病気にかかりやすく、入院した事も一度や二度ではない。しかし、それらは一つ一つ思い出せるのに対し、十一歳の時の入院はそれに至った過程も分からず、むしろ空白の時間を残念に思う事はあっても、今まで深く考える事はなかった。
 不思議な事に今の今まで忘れていたと言ってもいい。まるで閉じられていた記憶の扉が、夢の映像を鍵に開けられたようでさえある。
(……夏。…夏だった。夢の中で見た景色も、小さなボクが着ていた服も…。
(もしかしたら……、ボクは小さな頃、海馬くんに会ってるのかもしれない…)
 突飛に思えた考えは時間が経つにつれ確信めいたものに変わっていった。同じ童実野町に住む者同士ならば、どこかで知り合っていた可能性は否定できない。そもそも海馬は初めて会ったはずの入学式で、遊戯の名を呼び引き止めたではないか。
 すでに遊戯の視線は手にした本の文字を追ってはいなかった。今まで謎だった全てに答えを見いだすべく、急いで図書館を後にした。

 遊戯が帰宅すると、母が丁度夕食のハンバーグを焼いているところだった。
 朝の遊戯の状態を気にしていた母親は、息子の好物で体調を調べる気らしく、遊戯は焦る気持ちを抑えながら努めて普段どおりに食事を取った。
 夕食後、遊戯は不自然にならないよう気を遣いながら、気になっていた事を聞いてみる。
「ママ、昔ボクが子どもの時、二ヶ月くらい記憶が無くなった事があったよね? それって、何が原因なんだっけ?」
 遊戯の言葉に母は双六と顔を見合わせる。
「……それはママにもよく分からないわ。あの時は突然だったし…。それがどうかしたの?」
 母の声は優しいが、顔に少し緊張が見えた。まるで遊戯に触れて欲しくない事なのだと言うように。
 遊戯は曖昧な笑みを作ると、別方向から過去にあったはずの記憶を掘り出そうとした。
「……じゃあ、ボクが子どもの頃気に入ってたイルカのTシャツって、どこにいったか知らない?」
「……イルカのTシャツ?」
「うん。童実野水族館に行った時、パパが買ってくれたやつ。サイズが大きくてすぐには着なかったと思うんだ。一緒に買ってもらったイルカのぬいぐるみはあるんだけど……」
「急にどうしたの? パパのことなんて今まで言わなかったのに…」
 母にじっと見つめられて、遊戯はうっかり父の話を振ってしまったことを後悔した。遊戯が幼い頃亡くなった父の話は、武藤家ではタブー同然になっている。仕事の過労で亡くなった父のことを、母は「自分がもっと早く気付いて病院で診てもらっていれば」と責めて、ノイローゼ気味になった時期があるからだ。
「パパじゃなくて、パパが買ってくれたイルカのTシャツだよ。……分からないならいいんだ、ごめん」
 気まずくなった遊戯は椅子から立ち上がる。
 亡くなってから十年以上経つというのに、未だに母から父の話はほとんど語られない。遊戯が記憶を無くしたその時の事も、母にとっては忘れたい傷跡になっているのかもしれなかった。
 二階の部屋へ行こうとすると、階段の途中で祖父に呼び止められた。
「……遊戯、急にどうしたんじゃ。イルカのTシャツのことなど、すっかり忘れとると思うとったぞい」
「じいちゃんは覚えてるの? あのTシャツどこにいったんだろ…」
 祖父はしばらく逡巡した後、遊戯に手招きした。そのまま自室である奥のふすまを開けたので、遊戯は黙って祖父の部屋に入った。

 双六は小物入れにもなっている踏み台を使い天袋の奥を物色した後、箱を一つ取り出してきた。箱の上に積もった埃を窓を開けてから吹き飛ばし、トレーナーの袖で拭う。
「…もう長い事いじっとらんからのう…」
 箱を持って部屋の中央へ座った双六は、遊戯を側に呼び寄せて蓋を開ける。箱の中には写真を現像に出した時に渡される袋が幾つか入っていた。その中から一つをおもむろに手にとって、双六はぽつぽつと話を始めた。
「遊戯が言っとるのはこれじゃろう?」
 双六に渡された写真を見て遊戯は息を呑んだ。
 青い空と海。白い砂浜で笑っている今より若い母と幼い自分。
 その姿は昨夜の夢に現れた子どもと同じで、夢で見たのと同じイルカのTシャツを着ていた。
 緊張感でゴクリと喉を鳴らした遊戯に、祖父は次々と写真を手渡してくる。それらはどれも遊戯の記憶に無い物ばかりだ。
 鮮やかな風景。南国独特の花。家族を写した写真の端々には、アジア系やヨーロッパ系といった異国の人々の姿があった。
「……これ、どこに行った時の写真? ボク全然覚えてないよ」
「マレーシアのリゾート地じゃよ。小さな島を観光と言うより避暑地として作ってあってのう。手付かずの自然を満喫してゆっくり寛げる何とも贅沢な所じゃったわい。ここに行けたのは遊戯のおかげなんじゃが、やっぱりそれも覚えとらんのか……」
 その声はしんみりと寂しそうだった。
 祖父の話によると童実野商店街の催しで、遊戯が回した福引きの一つがスペシャル賞の海外ペア旅行だったらしい。丁度夏休みを迎える前で、せっかくだからと一人分料金を追加して家族三人で旅行に出かけたのだと言う。
「ホントに綺麗なとこでのう…。ワシも若い時は色々歩き回ったもんじゃが、ばあさんにも一度見せたかったわい」
「……どうしてボク、何も覚えてないんだろう…」
 ぽっかりと抜け落ちた記憶も謎だが、忘れた事さえ忘れていた。まるで最初から無かったかのように。
「向こうについて五日目か六日目じゃったな…。遊戯が急に熱を出して病院に連れて行ったんじゃが、そこの医者にも原因がよく分からんでの。マレーシア国内で小康状態になったとこで日本に帰ってきたんじゃ。
「あのTシャツは丁度遊戯が病院に担ぎ込まれた時に着ておって、治療だ何だとばたばたしとるうちに分からんなってしもうたんじゃ。
「誰が悪いわけでもないのにママは自分を責めてのう…。遊戯が死んだら今度こそ後を追うと言うて大変じゃったわい」
「……そうなんだ…。ごめん…」
 遊戯が覚えていない事とはいえ、突然の質問に母がどれほど辛い記憶を呼び起こされたのかと思うと胸が痛んだ。
 双六はうなだれる遊戯の頭を軽く撫でて励ました。
「ワシから折を見て言うておくつもりだったんじゃが、ちょっと遅かったのう。すまんのぅ遊戯」
 遊戯は声を出せずに首を振る。旅行でのアクシデントは母だけでなく、祖父にとってもあまり思い出したくない出来事だったのだろう。誰のせいでもない。タイミングが悪かっただけなのだ。
「言い訳みたいじゃがワシはなかなか言い出せんかったんじゃ。遊戯の容態が良くなってからもその話になるとママは気持ちが不安定じゃったし、何もかも忘れてしまった遊戯を見てると可哀想でのう…。せっかく友達が出来たと喜んでおったから余計に…」
「……友達?」
 遊戯は心臓が掴まれたのかと思った。夢の中で見た映像が蘇る。
「友達って誰? ボクに旅行先で友達が出来てたの? どんな子? 名前は? その子は今どうしてるの?」
 矢継ぎ早な質問に双六は気押されたものの、ゆっくりと頭を振った。
「それはワシにも分からんのじゃ。遊戯はもったいぶって名前も教えてくれんかった。その時は日本人観光客も多かったし、近くのホテルに泊まっとる日本人家族の子どもじゃと思っておったんじゃ。その子に会ってから、遊戯は毎日一人で遊びに行っとったわい。ご飯の時間にはちゃんと戻ってきとったからワシらもあんまり気にしとらんでの。むしろ毎日遊戯が楽しそうで、旅行に来て良かったと、何度もママと話をしとったくらいじゃった…」
「……」
 期待に心躍らされた分、遊戯は消沈した。せめてその子の名前さえ分かれば、日本人かどうか、性別なども推測できるというのに、何故その時の自分は詳しい事を祖父や母に秘密にしていたのだろう。
 遊戯は渡された大量の写真を一枚一枚丁寧に調べた。どこかに夢の中と同じ海馬の姿が見つからないかと淡い期待を抱いて。
 祖父の仕舞っていた全ての写真をチェックしても、それらしい人間は写っていなかった。
 だが、遊戯は漠然とした思いが確信に変わっていくのを感じていた。写真に納められた異国の風景は紛れもなく最後に見た夢の中の物だ。空の鮮やかな色に花々の芳香。胸を焦がす切ない痛み。それらは紛れもなく、かつての経験による記憶なのだと。
「じいちゃん、これもらっていい?」
「ああ。何か思い出せるかもしれんしの」
 一旦写真を戻して遊戯が箱ごと持ち上げると、双六は小さく何度も頷いた。

 部屋に戻った遊戯は写真をジャンル別に整理し、夢の中で見た映像に近い物をいくつか取り出した。しかし、どれほど見つめても何も思い出せない。夢の出来事を辻褄合わせていけば、この場所で遊戯の「友達」になった「誰か」は海馬としか思えないのだが、物的証拠は無い。
 徐々に遊戯は不安になってきた。
(海馬くんと話が出来たら……そうすればすぐ分かるのに…!)
 無茶な望みに遊戯は背もたれにしていたベッドの端へ力なく寄りかかる。
「……待てよ?」
 遊戯は閃きに身を起こす。
「モクバくん! モクバくんに聞けばいいんだ! この年の夏にどこへ行ったか、モクバくんならきっと知ってる! モクバくんも海馬くんと一緒に行ってたかもしれないんだから!」
 名案だと浮かれて廊下へ飛び出た遊戯はすぐに我に返った。
(……ボク、モクバくん家の電話番号知らないや)
 会社に電話して尋ねようかとも思ったが、遊戯が海馬の同級生とはいえ私邸の電話番号を教えてくれるとは思えない。直接家を訪ねるべきかとも考えたが、副社長であるモクバは必ず在宅していると限らないし、夜に連絡もなく押しかけるのは気が咎めた。
 遊戯はどうすればいいのかと、しばらく部屋の中をうろついた。
「そうだ! 確か海馬くんが入院している病院のお見舞い時間は午後八時まで。それまでに行けば海馬くんに付き添ってる――榊さんがいる! 榊さんに頼んでモクバくんにボクが連絡が欲しがってたって伝えてもらえばいいんだ!」
 遊戯は部屋の時計を確かめる。時刻は七時過ぎ。急げばギリギリ間に合うだろう。むしろこれしかないと、遊戯は財布を掴んで家を抜け出した。

 バスと電車を乗り継ぎ、いつもなら節約する駅前からのバスを利用して病院へ着くと、なんとか面会終了時間前だった。ナースステーションに待機していた看護士に「面会は八時までですから」と念を押され、遊戯は早足で海馬の部屋へ向かう。
 もどかしげにノックをすると、遊戯を迎えてくれたのはモクバだった。
「どうしたんだ遊戯。こんな時間に見舞いかよ」
「ビックリした〜。それはこっちのセリフだぜ。モクバくんに聞きたい事があって、でも家の電話が分からないし、どこで聞いたらいいかなって。榊さんならモクバくんに連絡取ってもらえるかもって来たとこなんだ」
「まぁ座れよ。榊が戻ってきたらお茶の一つでも出させるぜい」
 モクバは遊戯にそれまで自分が座っていた椅子を勧めてきた。モクバに椅子へ押しつけるように座らされたので、遊戯は断りながらも大人しく従った。バスを降りてから息せき切って駆け込んできたのでありがたいのだが、まさか当のモクバに会えるとは予想だにしていなかった遊戯は肝心の質問を切り出せずにいた。
「兄さまさ。顔色いいだろ」
「え? あ、うん」
 モクバに話を振られて、遊戯は海馬を無遠慮に見つめた。海馬は相変わらず人形めいた寝顔だが、頬は以前より赤みがあり、唇には健康的とも言える紅色が差していた。
「この数日具合がいいみたいなんだ。もしかしたら兄さま、もうすぐ目が覚めるのかもしれない…」
 海馬を見つめるモクバの視線は兄弟ならではの慈愛に満ちていて、遊戯は夢の中とはいえ海馬に施した仕打ちを思い出し居たたまれなくなった。
「で?」
「え?」
「オレに聞きたい事があったんじゃないのかよ」
 モクバは機嫌がいいのかわざとからかう口調だった。
 遊戯は「ちょっと変な質問だと自分でも思うんだけど…」と前置きして、電車の中で繰り返していた疑問を口にした。
「海馬くん、小学五年生の夏に外国へ旅行しなかった? モクバくんは海馬くんと五歳違いだから、まだ五〜六歳ぐらいだったと思うんだけど、覚えてないかなぁ」
「オレが五〜六歳の時?……オレ達が施設にいた頃は旅行自体した事ないし、海馬家に引き取られて数年――兄さまが中学生になるまでは、兄さまは剛三郎の英才教育をこなすのがやっとでそれどころじゃなかったぜい」
「……そうなんだ」
 遊戯は心に秋風が通り抜けるのを感じた。モクバは子どもだが頭の回転も早く物覚えも良い。記憶違いなのではないのかと問いつめたりは出来なかった。
(……「友達」は海馬くんじゃ無かったんだ…。じゃあ、何であの写真と同じ風景の中に、海馬くんがいる夢を見たんだろう……)
 気落ちした遊戯をモクバは不審に思ったのだろう。
「……旅行って何の事なんだ?」
「あ……その、大したことじゃないんだ……。勘違いって言うか。昔ボクが子どもだった頃、海馬くんに会ってたんじゃないかと思う事が――」
 自嘲気味に説明していた遊戯はモクバの表情が一変しているのに気がついた。先ほどまでの憎めない笑顔を覗かせていたモクバは、ひどく鋭い瞳で遊戯を見据えている。
「……遊戯は子どもの頃、兄さまに会った事があるのか?」
「ち、違うよ。もしかして会ってたのかもしれないなって思っただけで……。どうしたの? ボク、何かモクバくんの気に障る事言っちゃったのかな…」
 まるで睨むようなモクバの視線に、遊戯は息苦しさを感じて腰を上げる。助けを求めて部屋の中に視線を巡らせると、壁掛けの時計が八時過ぎを指していた。
「……あ、もう遅いからボク帰るぜ」
「……森の中で?」
 遊戯の出した声にモクバの押し殺した声が重なった。
「え? ごめん、よく聞こえなかった。今なんて言ったの?」
 モクバは小刻みに首を振った。大した事ではないと言わんばかりに。
「もう遅いから気をつけて帰れよ。…いつも兄さまの見舞いに来てくれてありがとうな」
「あ、うん。またね。おじゃましました」
 ぎこちなくも笑顔を見せてくれたモクバに安堵して、遊戯は病院を後にした。モクバの急変に疑問はあったが、それよりも自分の予想が覆ったショックの方が大きくて、いつの間にかモクバの事は意識の外側へ流れていった。
 
 遊戯の気配が無くなった後、モクバは枕元に近づき海馬の顔を覗き込んだ。
「……兄さまは昔遊戯に会った事があるの?……あの時「森の中」で会ったっていう「誰か」が遊戯だったの?」
 目覚めていれば兄にのみ聞こえる声でモクバは囁いた。
 海馬からは何の反応もなく、静寂だけが訪れる。
 モクバは遊戯に嘘はついていなかった。遊戯が聞いてきた年の夏、兄弟は紛れもなくこの街にいた。
 但し、その年の夏、海馬は今と同じように病院のベッドの上にいた。生きる目的を失いすべてに絶望した姿で。
「兄さま…兄さま…! オレは兄さまの弟でいられたらいいんだ。兄さまが側にいてくれるだけで…! 早く帰ってきて……。もう二度と一人でどこにも行かないって約束してくれたじゃないか……」
 兄の胸にしがみつきモクバは懇願する。兄をこの眠りから呼び覚ましてくれるのは遊戯なのかもしれないと思いながら――。


     6

■表さんのパパは単身赴任でいないというのがオフィシャルらしい…。でもそれを知ったのは去年だったので、この話は最初に考えてたもののままで行く事に。勝手に殺してすいません。相変わらず嘘ばっか書いてます(マレーシアの事とか)。今年中には終わるような…終わらせたい…。