誰よりも君を愛す


■11

「……オレを、嫌いにならない……?」
 疑いを認めたかのような綱吉の言葉に、獄寺はどす黒い嫉妬心で一杯になった。しかし、獄寺は問いかけに肯定しかできない。綱吉が獄寺以外に身を許したのだとしても、その原因を作ったのは獄寺だ。綱吉を不安にして長い間寂しい思いをさせていたのだから、獄寺の怒りは綱吉には向けられない。その代わり、相手の男は何があろうと始末すると殺意を固めた獄寺は、脳裏に浮かんだ男達の殺害方法を考えて少しだけ冷静さを取り戻した。
「オレは、何があろうと、10代目を嫌いになったりしません」
(あなたは優しい方だから、あなたが情をかけた男を殺したせいで、オレを嫌いになる事はあるでしょうけど……)
 獄寺が綱吉から身を離しベッドの上で正座すると、綱吉は緊張と恐怖で震える身体を丸めて辿々しく話し始めた。
「……オレ、昨日、学校で獄寺君にさわられて……、一回出したのに我慢出来なくて、学校のトイレで……」
「誰と、会ってたんですか」
「誰とも会ってない! 誰にも、誰かに知られたら最悪だ。いくら放課後で人が少ないからって、学校のトイレでするなんて」
「……お一人、だったんですか?」
「そうだよ。君があんなことするから、オレ学校なのに自分で……しかも学校から帰る途中でまたムラムラしちゃって、どうしてもしたくなって公園のトイレで……」
「誰と会ってたんです」
「会ってない! 母さんには友達の家に寄るって電話したけど、誰にも会ってない!
 ……獄寺君のせいなんだからな。あんな、公園のトイレでなんかしたくなかったのに、獄寺君がしてくれるように自分の指を入れても気持ちよくなれないし、結局イけなくて苦しいのに治まるまでトイレにいたら服に臭いが付いちゃって、臭いが取れるまで時間つぶししてたら遅くなって、お腹はすくしリボーンには長々説教されるし散々だよ……」
 綱吉は膝を抱え涙目で獄寺を睨んできた。獄寺はしばらく意味が分からず呆然となる。獄寺にとっては学校だろうが公園のトイレだろうが、もよおしてしまって我慢出来ない場合に処理をするのは当たり前のことで、浮気でないのなら何故綱吉が獄寺の問いかけにあれほど怯えたのか分からなかった。
「どうして最初にそう仰ってくださらなかったんですか。オレは十代目がオレ以外の男に――と思って、生きた心地がしませんでした」
「そんな、オレが獄寺君以外とエッチな事するわけないじゃん。まだ疑ってるみたいだからもう一度言うけど、昨日は誰とも会ってない」
 綱吉は相変わらず涙目のまま、耳たぶを赤くして睨みつけてくる。体育座りの姿がよりあるじを小さく見せて可愛らしい。
「自分の事を棚に上げて十代目を疑ったのは謝ります。でも、ご自分でされるぐらい当たり前だと思いますが」
「だって、浅ましいじゃんか。獄寺君にダメだって言いながら、オレはあの時人に見つかったらただじゃすまないのに最後までされちゃったらどうしようって興奮してたんだ。トイレでしてるときも、追いかけてきた獄寺君に同じ個室へ入られて無理矢理されちゃう妄想しながらやってただなんて、は、恥ずかしくて、獄寺君に軽蔑されて嫌われたらどうしようって、だから、だから――」
「ほぶっ!」
 鼻血を噴きそうになり獄寺は口元を押さえる。浮気ではないと分かった安心感で脳味噌が緩んでいたせいか、綱吉が怯えていた理由が今頃やっとリアルに理解出来た。獄寺も昨日学校のトイレで処理した時、教室で嫌がる綱吉を無理矢理――という、余り胸を張って語れない妄想をした。綱吉も獄寺と同じように、教室からトイレへ場所を変えて似たような妄想をしていたのだと思うと、嬉しいのと同時にそんな美味しいシュチュエーションを何故自分は見過ごしたのかと後悔した。そして、綱吉が学校ばかりか帰り道の公園で再度自分を慰める場面を想像し、余りのいやらしさに静まっていた欲望が沸き上がる。
 誤解が解けると滾った身体は正直に動いた。獄寺は身を縮めた綱吉を抱き寄せ耳朶に唇を寄せる。
「軽蔑なんかより、もっとヤバイです」
 綱吉が不安げな目をするのが堪らなく可愛い。
「それでなくてもオレはしょっちゅう妄想で10代目に好き勝手な事してるんですよ。そんな話聞いたら、この先トイレ行くたび、行かなくても、10代目がトイレでオレのこと考えながらオナニーしてる姿を想像して興奮します」
「あっ……ま、待って。獄寺君も、脱いで、よ」
 赤く熟れた耳たぶを舐めたり囓ったりしながら熱の引いた身体をまさぐろうとして、綱吉に腕を止められる。獄寺は勢いよく開襟シャツとTシャツを脱ぎ捨て、指輪とネックレスも床に放った。その間に綱吉が獄寺のベルトに手をかけ手伝ってくれたので、下着ごとズボンを下ろし同じようにベッドの外へ投げた。





 獄寺は暑苦しさで目が覚めた。
 部屋の中を夕暮れの日差しがオレンジ色に染めている。昨夜ろくに眠れなかったせいもあって、セックスのあと眠ってしまったらしい。最低限の後始末しかしていないせいで身体はべたつき部屋の中はすえた独特の臭いが籠もっている。せめてクーラーをとリモコンを探すために身を起こしかけて、すぐ側ですやすやと寝息を立てている綱吉を抱き込んでいる自分に気付いた。たちまち睡魔に誘われる前の事を思い出す。
 長い間の誤解が解けてそれまで以上に綱吉を愛おしいと思ったせいで、獄寺はかなり暴走してしまった。最初の数回は覚えているのだけれど、途中からは泣いている綱吉の眉間に寄ったシワだとか、綱吉が握りしめていたシーツから指をほどいて自分の指と恋人繋ぎにした事だとか、端の事しか覚えていない。身体は気怠い疲労と甘い幸福感に満ちていて、綱吉に随分負担を強いたのだと推測出来た。
 それが証拠に綱吉は抗いも出来ず獄寺の腕に捕らえられている。汗で湿気た髪の毛が額に張り付いて、目元を赤く腫らした綱吉は餌食になった獲物のようだ。救いは身じろぎもせず眠る綱吉の表情が腹一杯で眠る猫のようにあどけない事で、獄寺は申し訳なさが込み上げる。
 獄寺は綱吉を起こさないようにゆっくりあるじの湿った髪を梳き、綱吉の腰を上掛け越しに撫でた。
「……んん」
 綱吉が大きめの吐息を漏らす。獄寺は自分の手の動きが痛いのだろうかと手を止め様子を伺い、あるじの呼吸が穏やかに続くのに安心して再度慎重に撫で始めた。
 記憶も途切れるほど好き勝手をしておいて虫が良すぎると思うのだが、所々思い出せる場面で、綱吉は獄寺を拒否する言葉を一度も言わなかった。むしろ綱吉は獄寺の我が儘で強引な求めを受け入れ、積極的に応えてくれていた。もちろん、獄寺がそう思いたいから都合良く記憶を改ざんしているのかもしれないのだが。
 抱き込んだ綱吉を撫でさすりながら寝顔を見ていると、少しずつ記憶が甦ってくる。どれもいやらしくて可愛らしい綱吉の表情や仕草ばかりで、幼く見える寝顔に性懲りもなく欲情してしまった。
 しかし、それも仕方ないのだと、獄寺は言い訳じみた論理を展開する。元々綱吉は何をせずとも獄寺にとって堪らない魅力に溢れた存在なのだ。それが自分との性交で疲れの中に満ち足りた表情を見せられたら、自分の存在と行為を肯定された気分になるのは当たり前だろう。おまけに安心しきった寝顔はとてつもなく可愛い。額に髪の毛が張り付いているのも、涙で腫れぼったい瞼も、うっすらと汗の粒が浮いた鼻の先も、少し開いて今にも涎が零れそうな唇も、どこもかしこも可愛くて堪らない。
 獄寺は己の気持ちに正直になって、綱吉の可愛いと思う場所へ唇を落とした。額と髪の毛の生え際からは汗と綱吉の匂いがする。綱吉はいつも恥ずかしがって嫌がるけれど、獄寺にとっては高級な香水よりもときめく香りだ。
「……ん……あ、れ……? オレ……寝てた?」
 獄寺が何度もキスしたり匂いを嗅いだりしていると、綱吉が目覚めたばかりの緩慢な動きで目元を擦る。
「おはようございます十代目。余り擦ると腫れちまいますよ」
 獄寺は綱吉の手を止めさせて余計に赤くなった目元に唇を伝わせる。くすぐったいのか綱吉は笑いながら身をすくめた。
「十代目、お体大丈夫ですか? オレ、途中から訳わかんなくなって……」
「ん〜〜ちょっとだるいけど大丈夫だよ」
「そのまんまだから気持ち悪いっスよね。すみません。すぐに風呂沸かしますね」
 ベッドを出ようとした獄寺を綱吉の腕が引き止める。
「獄寺君も疲れてるだろ。お風呂なんてあとでいいからもうちょっとこのままでいようよ」
「は、はい」
 獄寺はそそくさと元の位置に戻り綱吉を抱きしめると、先程までのように綱吉の身体を布越しに撫で始めた。
「ごくでらくん」
「はい」
「ごくでらくん」
「はい」
「えへへ。ごくでらくんだ〜」
 綱吉は嬉しげに獄寺の胸へ頭を擦りつける。途端にそれまで以上の愛おしさで獄寺の胸はときめいた。同時に下半身が熱を帯び始め、獄寺は腕の動きを止めないまま腰を綱吉から離し、熱を引かせるために頭を使おうとしてふと思い出した。
「そう言えば十代目。朝来られたときに仰ってましたが、「しのはらさん」って誰ですか?」
「そ、それはもういいよ。オレの勘違いだったし」綱吉は頬を染め視線を逸らし早口にまくし立てた。「って、獄寺君、篠原さん知らないの?」
 信じられないと言わんばかりの眼で見つめられ、獄寺はどう考えても心当たりがないと正直に答えた。
「あ――……そっかあ。獄寺君らしいと言うか。……ゴメン。オレ、獄寺君の事、ちょっと疑ってた」
「えっ、ど、どういう事でしょう?」
 そんなに「しのはらさん」というのは重要な人物だったのかと獄寺が慌てると、綱吉は苦笑いして教えてくれた。
「篠原さんて言うのはクラスの、獄寺君の隣に座ってる髪の長い女の子だよ」
「はあ。そうなんですか」
「で、オレがおととい学校でやな事があったって言った原因の人。別に篠原さんが悪いんじゃないけどさ。獄寺君と篠原さんが付き合ってるんじゃないかって、噂を聞いちゃって」
「何で名前も知らねえ女とそんな噂が立つんでしょう」
「獄寺君は女子に素っ気ないのに、篠原さんにはよく自分から話しかけるだろ」
「それは単にオレがいない時の十代目情報を聞くためですよ。クラスの男は聞いても十代目の事を見てなくて役にたたねーんです。むしろオレはあの女は十代目に気があるんじゃないかと思ってました。オレが十代目の事を聞くと大抵いつも答えてくれましたから」
「オレは、篠原さんは獄寺君が好きだからいつも聞かれるオレの事をチェックしてたんじゃないかと思うけど。ああでも、これは噂で聞いただけで本人の気持ちは分からないんだから、全然違ってたら彼女には失礼な話だよね」
 綱吉はばつの悪い顔になり、獄寺はそんな殊勝な考え方をするあるじを愛おしく思った。
「噂を聞いた時、獄寺君が彼女と付き合ってるだなんてあり得ないと思ったけど、獄寺君が彼女によく話しかけるのはホントだし、実際彼女はすごい美人だし、獄寺君と並んでも釣り合うし、それで誤解する女子がいたって変じゃないって思ったら不安になって……。
 今日、彼女も学校休んでたんだ。獄寺君も休んでたから、二人は学校さぼってデートしてるんじゃないかって言ってる子がいて、オレ、この数日獄寺君の様子が変だったからもしかしてホントに……と思ったらカーッとなっちゃって、確かめようにも獄寺君の携帯繋がらないし、気が付いたら授業中なのに抜けて来ちゃったんだ」
「オレは十代目だけです。別世界の十代目には、ちょっと誘惑されてしまいましたが……」
「疑ってゴメンね。篠原さんの事も、リボーンからの電話の事も、結局オレに自信がなかったから爆発するまで獄寺君に聞けなかったんだ。君を疑い始めてから、それまで時々あったボンゴレ一族の「超直感」ってやつも全然働かなくなっちゃって、余計何が本当で嘘なのか自信がなくなった。
 オレは次期ボンゴレ10代目としてリボーンから教育されて、骸やザンザス達と戦って勝ったから周りからそう持ち上げられてたけど、マフィアなんて向いてないと思うしなりたくないと思ってた。でも、守護者になった獄寺君の喜びようを見てたらボスになりたくないとは言いにくくなって、君を好きでずっと一緒にいたい気持ちもあって、やっぱりボスになるべきなのかな、嫌だけどしょうがないのかなあって感じで自分の気持ちを曖昧にしてたから、10代目になりたくないって言ったら心変わりされるんじゃないかとか、もしかしてオレを好きだって言ってくれたのはオレをボスにするために最初から仕組まれてたんじゃないのかとか」
「そんな事ありえません。オレは、」慌てた獄寺の口元に人差し指を付けて綱吉が黙らせる。
「うん。今はちゃんと分かってる。オレは自分がボスになる覚悟も獄寺君の恋人としての自信もなくて、そのくせコンプレックスを感じないですむようには努力もせずに、獄寺君のせいにしてひねくれてた。きっと聞いても獄寺君はリボーンの話を認めるはずないって。認めたらオレはボスにならないし、そうすると右腕になる夢が叶わないから。
 オレは、君の好意に甘えながら君の気持ちを試してた。傲慢だよ。何様だ。初代の血筋じゃなくてリボーンが家庭教師に来なかったら、きっと高校にも行けないくらいのダメツナだったクセに」
「10代目。10代目が初代ボンゴレの血筋で、そのために10代目候補に抜擢されてリボーンさんが来られた事は変えようのない運命みたいな物です。ですが、10代目は運命から逃げずに頑張ってこられたじゃありませんか。リボーンさんは9代目の勅令でも見込みのない者を育てたりしないと思います。それに最初から、10代目は敵として対峙した相手でも罪を許して受け入れる優しさと懐の大きさをお持ちでした。
 自信満々で出しゃばりの政治家にろくな奴がいないように、己の欠点や適正を考えずトップを狙おうとする奴は身のほどを知らない小物ばっかりです。10代目は思慮深くて、弱い人間の気持ちの分かる優しいボスになられますよ。もちろん、ボスになられなくても、オレはお側にいます。むしろボスにならない方が沢田さんを独り占め出来ます。
 いざとなったら駆け落ちしましょう!」
 獄寺が鼻息荒く熱く語ると、綱吉はとろけるように幸せそうな笑顔になった。
「ありがとう獄寺君。嬉しい。それってプロポーズ?」
「プロポーズならもっとロマンチックな場面で、指輪と一緒にもっと前向きでカッコイイ言葉を贈らせて頂きます」
 綱吉は笑顔のままで自分から獄寺の鎖骨に口付けた。
「今のでも充分カッコイイと思ったけど、改めて言って貰えるのならその時まで楽しみにしてる。でも、部屋の中バラ一杯とかはなしだよ」
「そうですね。部屋一杯なんてみみっちいです。イタリア全土をバラで埋め尽くしますよ」
「んーと、冗談だと思うけど埋め尽くさないで。ビル○イツだって破産するよ。お金はもっと有意義に使わなくちゃ」
「そうですね。バラの本数でオレの10代目への愛が変わる訳じゃありません。むしろ世界に一つきりの新種のバラを作って贈らせて頂きます」
 獄寺はその日を想像して何度も綱吉の顔にキスをした。綱吉が少し遠い目になって「やっぱりバラから離れないんだ」と呟いたのも聞こえなかったくらいに舞い上がって。
「そろそろ風呂の用意しますね。10代目、腹減ってますよね。もう昼飯には遅すぎますけどリクエストがあれば」
「ありがとう。胸がいっぱいでそんなにお腹は空いてる気がしないけど、面倒じゃなければ獄寺君のスパゲッティーが食べたいな」
「あんなの茹でてソース乗っけただけですよ」
「でも美味しいよ。母さんが作るのより歯ごたえが丁度良くて好きなんだ」
「じゃあ、風呂のあとで張り切って作らせて頂きます」
「あ、獄寺君」
 ウキウキしながらベッドを降りた獄寺は風呂場に行こうとして呼び止められた。
「はい。何でしょう?」
 綱吉はベッドの中でしばらく頬を染めもじもじしたあと、思い切ったように告白した。
「あのね、前に獄寺君が「下手ですか?」って聞いた事あるじゃん? あの時「分からない」って言ったけど、嘘だよ。獄寺君は、上手だよ。いつも、き、きもち、いい、から」
 言ってから余計に恥ずかしくなったのか、綱吉は布団をかぶって隠れてしまった。そんな綱吉の仕草と言われた言葉の意味が脳みそに到達して、獄寺の理性はぷっつり切れた。
 獄寺はベッドに戻ると綱吉がかぶった上掛けを剥ぎ取りのし掛かる。
「え? ど、どうしたのご――んん……っふ、あっ……ちょ、ま、もう、む……り――あっ……だっ……」
 弱々しく抵抗する綱吉に口付けしながら、獄寺は「ちょっとだけですから」だの、「すぐすませますから」だの、「うんと気持ちよくします」などと言い訳しつつ不埒な行いを続行した。



 事が終わって本格的に身動きの取れなくなった綱吉に謝罪しながら、獄寺はしもべらしく甲斐甲斐しいお世話をした。風呂で綱吉の身体と髪の毛を洗うのはもちろん、下着を履かせ洗いたてのバスローブで包み、髪はドライヤーでフワフワにして、疲労した身体を優しくマッサージした。次いでリクエストどおりにスパゲッティーを作り、綱吉の背後で座椅子代わりになりながら少しずつ食べさせ、同じ皿のそれを同時に頂くという何とも幸せな労働を仰せつかった。綱吉は半分も食べないうちにうたた寝を始めたので、獄寺は綱吉をソファーに寝かせてブランケットをかけた。
 眠っている綱吉を見ていると、モノトーンでまとめた部屋にオレンジ色のブランケットが彩りと調和をもたらしているように、獄寺の人生に綱吉が大いなる幸福と安らぎを与えてくれているのだと実感した。
 綱吉の額に口付けてから腰を上げる。未だ獄寺にはしなくてはならない事があった。
 獄寺は寝室に向かうとクローゼットから今年新調した夏用の黒いスーツを取り出した。それに淡いグリーン地にストライプが入ったYシャツを合わせ、ネクタイを締める。しばらく逡巡し、いくつかのダイナマイトと火種を仕込んだ。上着を羽織り姿見に映せば傍目には高校生に見えない青年がいる。獄寺は手櫛で髪を整え、気合いを入れるために数回ぴしゃりと頬を叩いた。
 着替えた獄寺がリビングに戻ると、綱吉は安らかな寝息を立てていた。獄寺は綱吉の癖毛を撫でて別れを告げる。
「10代目。少しだけ留守番お願いします」
 




 外に出るとむっとした熱気に包まれた。太陽も沈んだと言うのに昼間熱せられたアスファルトやコンクリートが日差しの余韻に喘いでいるようだ。獄寺は無意識に窮屈なネクタイを緩めかけ、足を止めるときちんと直して再び歩き出した。
 決意を決めて出てきたにも関わらず、足下がおぼつかない気がするのは外気のせいだけではないだろう。目的地が近づくにつれ、獄寺は背筋に冷や汗が浮いてむしろ寒気を感じた。
 目当ての家に着いた獄寺はドアの前に立ち深呼吸した。もう後戻り出来ないのだと腹を括ってチャイムを押す。すぐに中からは軽やかな声がしていつものように迎え入れられた。
「いらっしゃい獄寺君。あら、どこかにお出かけだったの?」
 奈々はスーツ姿の獄寺を見て目を丸くしたが、すぐに大人っぽくて素敵ねと賞賛してくれた。獄寺は挨拶と礼を返しながら緊張で乾く唇を舐める。
「お母様、リボーンさんいらっしゃいますか?」
「リボーン君ならツナの部屋にいると思うけど」
「リボーンさんに大切な話があるので、しばらく二人きりにして頂きたいんです」
「じゃあお話が終わったら下に顔を出してね。獄寺君が家に寄ってくれるの久しぶりなんですもの」
「はい、おじゃまします」
 獄寺が2階への階段を上がろうとすると、奈々がさり気ない口調で聞いてきた。
「今日学校から電話があって、ツナったら1時間目の途中で授業さぼって鞄も持たずにどっか行っちゃったらしいんだけど、もしかして獄寺君と一緒にいたのかしら?」
 獄寺は足を止め奈々に向き合った。校則の緩めな高校ではあるが、さすがに脱走した生徒を放っておくほど呑気ではないらしい。
「そうです。すみません。10代目は今、オレの家にいらっしゃいます」
「大っぴらにサボられても困るけど、獄寺君が一緒だったのならいいのよ。滅多にない事だし。良かったわ。二人とも仲直り出来たのね」
 奈々にニコニコと笑顔で許されて、獄寺は赤面した。仲直りどころか、綱吉は獄寺に好き放題されて寝込んでいる状態なのだ。こうも手放しで喜ばれると、気恥ずかしさと決して真実を言えない申し訳なさで胸が苦しくなる。
「は、はい。お母様にはご心配おかけしてすみません。でももう大丈夫です」
「安心したわ。ツナったら高校生になってからすっかり怒りんぼになっちゃって、理由は聞いてないけどきっと獄寺君と上手くいってないんだろうって思ってたの。それなのに自分からわざと獄寺君を困らせるような事言ったりするから、いつ獄寺君が愛想尽かして嫌われちゃわないか気を揉んでたのよ。我が儘で大変だと思うけど、あの子があんなに甘えてるのは獄寺君だけだから、獄寺君が嫌じゃなかったらこれからも仲良くしてね」
 獄寺は言葉に詰まって泣きそうになった。昨日奈々に「ケンカしてるの?」と問われた時、てっきりこの数日の出来事を心配されているのだと思ったのだが、奈々は綱吉の母親なだけあって綱吉の変化に早くから気付いていたのだ。
 獄寺は震えそうな声を一旦飲み込み、真っ直ぐに奈々を見た。本当の事は言えないが嘘はつきたくない。
「お母様。オレは10代目と出会えてからとても幸せなんです。誤解があってしばらくもめていたせいでお母様には随分ご心配おかけしてしまいましたが、もう二度と同じ事はありません。オレはオレに我が儘を言って下さる10代目が大好きです。だからずっと、10代目のお側にいます。いさせて下さい」
 奈々はあらあらとほくそ笑み「そんなに獄寺君もツナの事好きでいてくれるのなら、いっそうちの子になっちゃう?」などととんでもない事を言いだした。
「あ、あの、すごくありがたいお話ですが、オレは10代目の兄弟になりたいわけではないので遠慮します」と獄寺が答えると、奈々は「ツナの兄弟じゃなくてもうちの子にはなれるわよ」と更に意味深な事を言ってキッチンへ戻っていった。獄寺はしばらくその意味を考え、浮かれている場合じゃないと気持ちを引き締める。
 2階への階段が酷く長い距離のように感じるのは、処刑台へ登る囚人の気持ちに似ているからかも知れない。階段の一歩ずつに覚悟と気合いを入れて、獄寺は綱吉の部屋に向かった。
 リボーンは部屋の真ん中で愛用の銃の手入れしていた。
「今日はリボーンさん、お話があるんです」
「ちゃおっす。随分とめかしこんでるじゃねーか獄寺」
 獄寺はリボーンの前に正座してずっと考えていた言葉を伝えた。
「以前、約束した言葉を撤回します。オレは10代目がボンゴレボスになられても絶対に別れません。それから、10代目がボスになりたくないと仰ったら、その時はオレもマフィアを辞めて一般人として10代目のお側にいます」
 獄寺が決死の覚悟で伝えたというのに、リボーンは獄寺にチラリとも視線を向けず銃の手入れに忙しい。聞こえていたはずだが反応が貰えるまで何度も言うべきなのかと再び獄寺が口を開きかけると、リボーンに良く磨かれた銃を突きつけられた。
「甘っちょろい事を抜かすな獄寺。お前は一度ツナがボンゴレボスになるまでの間でいいと誓ったはずだ。しばらくお預けを食わされて腹一杯食えたからって勘違いしてんじゃねーぞ。ツナは次期ボンゴレ10代目で、お前は守護者の一人にすぎねえ。お前が別れたくないと抜かした所で誰もお前を認めないし、許さない。マフィアを辞めて一般人になるだ? 裏切り者には死を。マフィアの掟を忘れたのか。お前程度じゃどう足掻こうと、ボンゴレの追っ手をかわしツナと小市民の生活を営むなんてどえらい夢物語だぞ。もっと自分の立場を理解しろ。分かったらとっとと帰ってツナを連れてこい。堂々とさぼりやがってダメツナが。今夜はいつも以上にねっちょり絞ってやる」
 予想どおりながら、リボーンの冷気を含んだ言葉に獄寺は凍り付いた。獄寺とて自分が言った事がどれだけ大それた事か分かっている。ボスにならなくても大空のリングの所持を認められた綱吉には、常にボンゴレとマファア界が関わってくるだろう。そもそもリボーンを敵に回して生き延びられた者など聞いた事がない。獄寺が決意を通すという事は、どう考えても最悪の展開しかない。
 しかし、それでも獄寺はリボーンに宣言しなければならなかった。かつて安易な気持ちで受け入れた「約束」でどれ程綱吉を悲しませてきたか、もう二度と間違いを犯す事は出来ないのだ。それで早すぎる死を迎えても、獄寺は最後まで綱吉の部下でなく恋人として存在したかった。
 獄寺は背筋を伸ばし宣言した。
「嫌です。オレは絶対に10代目と別れませんし、10代目がボスになりたくないと仰れば、オレはボンゴレやリボーンさんとも戦います」
 途端にそれまで以上の殺気が部屋の中に満ちた。
 身動き一つ出来ない呼吸さえも止まりそうな重苦しい緊張感の中、家の外で爆発音がした。
 獄寺は沢田家に来る途中、人気のない場所に音は派手だが家庭用花火程度の物を、簡易タイマーで15分後に爆発するよう仕掛けておいたのだ。
 緊迫した部屋に響いた爆発音は一瞬ではあるがリボーンの気を引きつける事に成功した。獄寺はその一瞬の隙を狙ってリボーンの構えていた銃口を跳ね除けダイナマイトに点火する。
 その間約0.5秒。
 獄寺は驚異的なスピードで全てをなし終えた。銃から手を放し背後へ飛び下がろうとしたリボーンの動きもスローモーションで捉えられる。
「甘いな」
 リボーンは投げられたダイナマイトの火種にレオンが変形したムチをしならせる。
 パシパシと勢いのある音が火のついた導火線を断ち切って、役立たずになった筒が部屋に転がった。
「チッ」
 獄寺はすぐさま奪い取った銃をリボーンへ向けた。
 獄寺の指がトリガーにかかった瞬間、
「っつ!」
 ビシッと手元に衝撃が走り、銃身に絡みついたレオンのムチが銃を奪った。
 形勢逆転。
 獄寺は再びリボーンに銃口を向けられる。
 リボーンは片手でレオンを帽子のつばに戻し、シニカルに口元を吊り上げた。
「仕掛けは単純すぎるが狙いは悪くなかったぞ。特別にもう一度チャンスを与えてやる。お前はツナの何だ?」
「……オレは、沢田さんの守護者で恋人です。沢田さんがボンゴレのボスになってもならなくても、オレは沢田さんの一番お側でお力になります。沢田さん以外に許されなくても認められなくても、オレの気持ちは変わりません」
「……そうか」
 獄寺に向けられた銃口は揺るがない。トリガーに小さな指がかけられる。死を覚悟した獄寺は出がけに見た綱吉の安らかな寝顔を思い出していた。
 その時、遠くから雄叫びがハイスピードで聞こえてきたかと思うと、階下から破壊音と奈々の悲鳴が響いた。獄寺は己の窮地を忘れて立ち上がる。
「お母様ッ――うわっ!」
 階段を飛んで何かの塊が部屋に飛び込んできた。それは獄寺に向けられていた銃口を掴み怪力と共にねじ曲げる。
「死ぬ気で獄寺君を守――る!!」
「10代目ッ!?」
 獄寺の目の前にソファーで眠っていたはずの綱吉がいた。風呂上がりに獄寺が履かせた黒地に赤いファイヤーパターンのパンツ一枚で、額からは死ぬ気の炎が燃えている。
「獄寺君はオレのものだ! 例えリボーンでも獄寺君に酷い事したら許さないからな!」
「遅えくせにでかい口叩きやがって」
 リボーンは綱吉に曲げられたバレルを片手で元通りに直すと、躊躇いもせずトリガーを引いた。
 獄寺を庇って銃口の前にいた綱吉を獄寺が突き飛ばし覆い被さった途端、ぱあんと脳天気な音が部屋に響き渡った。同時にヒラヒラと紙吹雪が舞い降りる。呆気にとられた獄寺がリボーンを見上げると、黒衣の家庭教師は銃口から垂れ下がったキラキラの紙テープをむしり取っているところだった。
「あ、あの、リボーンさん、これは一体……」
「は、れ? オレなんでここに……あっ! 獄寺君っ! 獄寺君大丈夫?」
 死ぬ気の炎が消えた綱吉が獄寺に縋りついて安否を確かめようとする。獄寺は声もなくただ頷いた。
「待ってくださいリボーンさん!」
 獄寺は身を起こすと階下へ降りようとするリボーンを呼びとめた。紙吹雪は最初から銃弾の代わりに入れられていた。それはつまり――
「ツナがボンゴレボスになったら、お前らの関係を咎める奴らはオレの比じゃないぞ。ボスとしての威厳がどうだ跡継ぎがどうだ――、しかもボスが東洋人だって事に反発する奴だっている。生粋のイタリア人じゃないことで受ける不当な差別は、獄寺、お前は身をもって知っているだろう。悪意ある相手と立ち向かい、失いたくない大切な相手を説得し納得させる。そのためにはお前達の気持ちが何物にも揺るがない事が重要だ。ツナがボスにならなくても、世の中はマイノリティに厳しいから同じ事だぞ。
 時間はかかったが自分たちで解決出来たからには、オレはこれ以上特に口を出す気はねえ。その代わり、ウザイからオレの前ではいちゃつくんじゃねーぞ」
 言いたい事を言ってリボーンはさっさと部屋を出て行った。獄寺は詰めていた息を吐き、同時におかしさが込み上げて苦笑せずにはいられなかった。
 リボーンは最初から獄寺が決着をつけるために自分の前に現れるだろう事を知っていたのだ。注意を引くための仕掛けも、恐らく綱吉が受けた電話も、あの日、どちらが受けてもいい内容だったのだろう。リボーンの手のひらで藻掻いていただけなのだと思うと、滑稽だとは思うがリボーンに対して怒りなどは湧かなかった。むしろリボーンを前にしてリボーンさえ敵に回して戦うと言った己の大胆さに今更ながら身震いする。出来る出来ないは別として、あの時の獄寺は綱吉への愛に生きそのためには死さえも厭わない心構えだった。けれど、リボーンに軽くあしらわれて分かった。勝ち目のない相手に一矢報いるためには冷徹な計算と準備と時間が必要なのだと。
「10代目はどうしてここに」
「……オレ、寝てたら夢に獄寺君とリボーンが出てきて、リボーンが銃で獄寺君を撃とうとして、それが冗談じゃなくて本気だって思ったら、オレ、獄寺君を助けなきゃって――で、気が付いたらここに来てた」
 床に横たわっていた綱吉は獄寺に抱き起こされるがままだ。死ぬ気モードが解除されると同時に元の状態に戻ってしまったらしい。獄寺は上着を脱ぐと綱吉の裸体を包んだ。綱吉の白い肌には鬱血や愛咬の痕が無数についていて、いかにもやりました感丸出しな姿が居たたまれない。まだ状況が掴めていない綱吉は自分がどんな姿で街中を駆けてきたか、リボーンに対峙したのか、理解した時は羞恥に身もだえする事だろう。
「ありがとうございます10代目。あなたのおかげでオレは助かりました」
「そ、うなの? オレ何がなんだかよく分かんないんだけど……」
 さっきよりも身体のあちこちが痛いとぼやきながら、綱吉はリボーンに特殊弾を受けずに死ぬ気化したのは初めてかもしれないと言った。綱吉が獄寺の元へ来なくても、リボーンは獄寺の心意気に紙吹雪を撒いてくれたかもしれない。しかし、綱吉の到着を遅いと罵っていた家庭教師は、綱吉が来る事も恐らく分かっていたのだろう。
 綱吉は自分にかけられた上着と正装の獄寺とを見やり、頬を染めながら唇を尖らせてむくれた。
「何で一人でいいカッコしようとするんだよ。オレだってリボーンに言いたかった。オレはボスになってもならなくても、獄寺君と別れない。獄寺君はオレの特別で最愛の人なんだからって」
 獄寺は綱吉の言葉に数回目を瞬いた。
「え……10代目。オレが何をしにリボーンさんに会いに来たか分かるんですか?」
「獄寺君見てたらなんでか頭の中にそんな感じの事が出てきたんだ。「超直感」が戻ってきたのかな?」
 小首を傾げる綱吉は愛くるしいがこれほどの精度で見透かされてしまうとなれば、ツナに関する後ろめたい記憶まで知られてしまうのではと獄寺は恐ろしくなった。
 綱吉はへにゃりと相好を崩すと獄寺の胸にもたれかかってくる。
「10代目、大丈夫ですか?」
「うん。安心したら力抜けただけ。前は「超直感」なんて知りたくないことばっか分かってテストにはちっとも役に立たないって思ってたけど、戻ったら頭ん中がスッキリした。笑えるくらいオレ、今怖いもんなしなんだ。獄寺君が好きで、獄寺君もオレのこと好きでいてくれて、それだけで何でも出来る気がしてる」
「……10代目」
 獄寺は綱吉を抱きしめ癖毛越しに額へ口付けた。腕の中にあるかけがえのない存在を、何故限られた時間だけでいいと思えたのだろう。部下としての忠誠も恋人としての最愛も以前と変わらないけれど、今の獄寺にはあの頃のような浮かれた気持ちは欠片もなくて、綱吉に必要とされる我が身を誇らしく思う反面、その責任を果たせられるのだろうかと不安を感じた。しかし、それは決して自信のなさから来る恐れではなくて、リボーンの言うとおり避けて通れない現実の重みを予感したからだ。
 獄寺は綱吉をベッドの上に座らせると、跪いたまま上着のポケットから指輪を取り出した。綱吉に投げ捨てられた物を風呂の用意をしている間に見つけておいたのだ。
「10代目、もう一度誓わせてください」
「……うん」
 綱吉がさし出した左手を受け取り小指へ指輪を通し、獄寺はあの時と同じようにプラチナへ唇を付けた。
「これから先、どんな困難があろうと、オレは沢田綱吉さんを愛し、大切にします。部下としての務めの前に、あなたの恋人として、あなたと共に生き、よりよい未来を一緒に作っていくことを、約束します。至らない所ばかりですが、これからも末永くよろしくお願いします」
 獄寺が顔を上げると、綱吉は声もなくほろほろと涙を零して何度も頷いた。
「っ……うんっ。オレもっ、ダメなとこばっかりだけど、がんばる。ありがとうごくでらくん。だいすき」
 獄寺はつられて泣きそうになり、唇で綱吉の頬に伝う涙を拭うことで誤魔化した。
 繋いだ手に触れる綱吉の小指にある指輪。今は小指が精一杯だけれど、いつか胸を張って薬指用の指輪を贈ろうと、獄寺は遠くない未来に思いを馳せる。
「おいそこのバカップル」
「は、はいっ!」
「ひいっ!」
 甘いムードに浸っていた獄寺と綱吉は、気配無く急に響いたリボーンの声で慌てて身を離す。
「玄関が壊れたままだと安心して眠れないとママンが言ってるぞ。壊した奴が責任持ってどーにかしろ」
「ええっ? オレがぁ?」
「お任せください10代目っ! こんな時は専門の奴に電話すればいいのです」獄寺は綱吉に着せていた上着から携帯電話を取り出すと記憶の中にある番号を打ち込んだ。
「4丁目の沢田さんが玄関の修理をご所望だ。5分で来い。ああ? 営業時間過ぎてるだあ? サービス業が巫山戯たこと言ってんじゃねーぞ。お客様あってこその仕事だろうが。店に爆弾投げ込まれてーのか。……分かりゃいーんだよ。ソッコーで来い。星が出るまでに直せ。いいな」
「ど、どこに電話したの獄寺君」
「オレのマンションのセキュリティやらした工務店です。すぐ無理だとか嫌だとか言いやがるんですが、腕は確かですから」
「そうなんだありがとう。助かったよ〜」
「いえいえ、このくらいおやすいご用です」
 普段なら「いくらお客だからってそんな高圧的な態度はどうなの」と窘めるはずの綱吉は、頬を染めてピンチに駆けつけてくれたヒーローを見る目になっていた。獄寺も10代目のお役に立てたと舞い上がっているので、当然だだ漏れになるバカップルオーラにリボーンだけがうんざりしたため息をついた。





 その後の獄寺と綱吉は、傍目にも分かるほど変化した。一番の変わり様は獄寺が前ほど綱吉にべったりでなく、2人でいるのも単独で過ごすのも当たり前のように自然になった事だ。綱吉以外の者への態度はさほど変化はなかったが、それまでの常に焦燥感を漂わせた険がなくなり、笑顔が多くなった。
 綱吉の方も「新しい環境で前向きに頑張る」という背伸びをやめて、本来のダメツナモード全開になったことから、良い意味で周囲に溶け込めるようになった。
 それらによって新たな人間関係の軋轢などが生じたりしたのだけれど、2人は手間暇がかかろうと自棄にならず、一つ一つの問題を話し合って解決した。恋人同士であろうと、違う人間が理解し合うにはそれ相応のエネルギーが必要だと実感した2人は、それが親しくないクラスメイトや元々反感を持つ相手であれば尚更だと分かったのだ。もちろん誠意を持って対応した相手が同じように誠意を返してくれるとは限らないのだが、小さな事でもおろそかにしないよう心を配る綱吉の態度に、獄寺は今まで以上に綱吉が終生のあるじに相応しく、ボスとしての資質に疑いがないと感じたのだった。





 期末テストが終わり目前に迫った夏休みに浮かれ気分となったある日。いつもと同じ学校からの帰り道で綱吉がツナの話を始めた。あの日以降一度として話題にされなかったので獄寺は安心していたのだが、綱吉の中でツナの存在は獄寺が思うよりも黒いシミとなっているらしかった。
「オレこう見えても執念深いんだよ。次に会ったら酷い目に遭わせてやるって決めたんだ」
 綱吉の琥珀色の瞳が狂気の色に燃えたので、獄寺はぞっとしながらもそんなあるじの姿にときめきつつ口を挟む。
「異次元バズーカは向こうからしか使えませんし、会いたいと願った相手と言っても微妙に違ったりするみたいですから、あの10代目にもう一度会うのは不可能だと思いますが……」
 ツナは誤射以外で自分から使うことはしないと約束してくれた。何より獄寺は異世界の沢田綱吉が再び現れて翻弄されるような事態は二度とごめんだった。
「何言ってんだよ獄寺君。あいつが昔会った大人の獄寺君は10年バズーカの話をしたんだろ? だったら、君がその大人の獄寺君かもしれないじゃないか」
「それは――可能性としてあり得なくはないですが……」
 綱吉の剣幕に押されて言葉を濁した獄寺だったが、本心では無理だろうと思った。何故なら。
「話によると、大人のオレは跳ね馬みたいに格好良くて優しくて、美味い料理が作れて、色々気が利いてたみたいですよ。あと、マフィアだったと仰ってました」
 まあ、オレは今の時点でもマフィアですけどと獄寺は一人ごちる。未来の獄寺が見た目に分かるマフィアだとしたら、当然その世界の綱吉はボンゴレボスになっているだろう。獄寺にとって綱吉のいない世界で生きていく意味はないからだ。しかし、そうすると綱吉の未来を限定してしまうことになる。例え杞憂にしても、獄寺は綱吉の未来の可能性を狭めたくなかった。
 ところが、獄寺の心配をよそに綱吉は人事のように気楽な声で、
「あ、オレ9月からイタリアの学校行くから」
「はい?」
「ディーノさんも通ってたマフィアの関係者が多い学校の方が護衛が簡単だから、リボーンが手続きしてくれるって。父さんと母さんにはもう話したし、今の学校にも夏休み入る前に言うから」
「ちょ、待ってください。10代目はマフィアが嫌いでボスにはならないはずでは」
「オレ、マフィアは嫌いだけど、ディーノさんや、9代目や、獄寺君は好きだよ。きれい事じゃやってけないだろうし、最終的にはやっぱり向いてないってならないかもしれない。でも今は、獄寺君が生まれ育った国のことを知りたいし、いろんな事が分かったらオレなりに気持ちの決着が着くかも知れないって思ってる。結局逃げ道残したまんまでずるいけど、オレは全部を捨てて迷いなくボスになる道を選べるほど強くはないから、とりあえず行くことにしたんだ。
 獄寺君も来てくれるよね。獄寺君が一緒にいてくれないと困るよ。オレイタリア語分かんないし」
 綱吉が軽口を装って甘えた声になる。そこに隠しきれていない不安や、君がいてくれたら言葉の面だけでなく頼りになるんだというメッセージを感じて、獄寺は胸に込み上げた熱い塊を飲み込んだ。
 唐突に思えたツナの話も、綱吉なりに未来を見据えた決意の表れなのかも知れない。もしも本当にツナが会った大人の獄寺が未来の自分なのだとしたら責任重大だと思いながらも、綱吉がボスとして共にいる未来が嬉しくないはずがなかった。
 獄寺は万感の思いを込めて返答する。
「はい。オレは沢田さんのお側にずっといます」
 獄寺がどう答えるかなど分かり切っていただろうに、心底安堵して歓びに溢れた綱吉の心からの笑顔を、獄寺はこの先何年経とうと忘れないだろう。
 あの日、些細なことから喧嘩になった帰り道と同じ交差点で、同じように歩行者用の青信号が点滅する。
「獄寺君行こう!」
「はいっ!」
 車道側の信号が青に変わるまでの僅かな時間、手を繋いだ2人は白いはしごを駆けていった。いくつか鳴らされたクラクションさえも、祝福の鐘のように感じながら――。



END

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□20080214 up