真夜中の恋人たち


  ■3■

 
 身体は疲れているはずなのに前夜の興奮からか、遊戯はいつになく心地良い朝を迎えた。元々朝の弱い遊戯はそんな目覚めは滅多にない。いつもは気怠く朝だと思うだけで、布団から出ること自体おっくうなくらいだ。
「……」
 目覚める直前まで夢を見ていたはずが思い出せない。海馬に関係した懐かしい夢だった気がするのに、夢のかけらを拾おうとすればするほど曖昧になってくる。
 遊戯は起き上がらずに、ベッド上の棚にある目覚まし時計を仰ぎ見る。起床するにはまだ随分早い時間だった。
 手を伸ばし布団の中を探っても、海馬の痕跡は残っていない。
(……帰っちゃったんだ)
 嬉しいながらも切ない感情が胸に込み上げる。
(昨夜、ボクは海馬くんと……)
 ずっと想い続けていた海馬と心と身体を繋げ合え、遊戯は例えようのない歓喜と幸福感で再度満たされる。
 既に海馬はここにはいないが、今日から二人にとって新しい時間が紡ぎ出されるのだ。
 自然と緩む頬をそのままにして、遊戯はベッドの中寝返りを打つ。海馬の匂いが残っていないかと、深く鼻腔から息を吸った。
「……」
 遊戯が感じたのは違和感だった。柔らかだが弾力のある枕は、昨夜確かに海馬の頭を預かっていたはずなのに、匂いは自分の物だけだった。
 しかも遊戯は昨夜脱ぎ捨てたパジャマに全身包まれている。下着の僅かな締め付けも感じた。
 海馬が帰る前に着させてくれたのかとも考えたが、ベッドの中は普段と変わらず程よい温もりで、とても高校生の男二人が組んずほぐれつした形跡を感じない。
 そもそも海馬の身長は遊戯より三十センチ以上高いのだ。遊戯が丁度収まるベッドに海馬が自然に横たわる事は不可能だ。
(で、でも、海馬くん暖かかったし、柔らかかったし、あそこなんて凄く熱くて――) 
 遊戯は湧きおこる嫌な考えを必死に打ち消そうとした。だが、どんなに希望的理屈を付けようとしても不安は大きくなってくる。
 何より下着の中に覚えのある感触を感じて、遊戯は恐る恐る手を伸ばした。
「……!」
 もはや疑いようのない現実に跳ね起きる。
 遊戯は夢精していた。まだ乾ききってない部分がぬるりとして生々しい。
「そんなバカな! 夢だったの? 嘘だ! 嘘だろ〜〜?」
 遊戯は部屋の中を見渡した。ベッドと机、タンスと本棚、TV台と部屋の隅に散らかしたままのゲームや雑誌、六畳の部屋は昨夜のままだ。
 掛け布団をはぎ取っても、ベッドは遊戯一人が眠っていた後しか無く、海馬がいたという証拠は見つからない。
 下ろし忘れたブラインドの窓はちゃんと鍵がかかっている。しかも、遊戯の部屋のドアは内側から鍵が掛けられていた。
「……夢……だった…んだ……」
 遊戯は力無くその場にへたり込んだ。海馬がいてSEXをした痕跡が無く、密室であるこの部屋には誰も入れないなら、それしか考えられない。
「ゆめ……」
 遊戯の名を呼び素直に身体をひらいた海馬は、遊戯の妄想が見せた淫夢だったのだ。
「……うわああああああああああああ!」
 真実を受け入れた時、遊戯は赤面の余り絶叫した。
 昨日のキスが原因としても、海馬が現れて想いが通じSEXするなど、エロゲーよりも都合が良すぎる。
(ボボボ、ボクってば、か、かかか海馬くんに、あ、あんな――!)
「ぎゃぁあああああああああ!」
 遊戯は頭を抱え、今度は青くなって床を転げ回った。
 夢は願望を表していると言う。薄々自覚していたとはいえ、現実まがいにリアルな夢を見た事と、そんな夢を現実として信じていたお気楽さに、自己嫌悪どころかいっそ死にたいくらいだ。
 赤くなるのと青くなるのを繰り返し、叫びながら床を転がっていた遊戯は、そのうちさすがに疲れて動きを止めた。
 ハアハアと肩で息をしながら思い出すのは昨夜の海馬だ。
「夢だなんて……海馬くん……海馬くぅん……」
 若さ故の迸りが見せた夢だとしても惨すぎる。
 海馬との時間がどれだけ嬉しかったか、どれ程幸せだったか、失ってしまったからこそ無くした物の大きさに涙がこぼれた。
「う、うう…うわ――ん」
 遊戯は床に伏して号泣するしかなかった。
 それは朝早くから騒いでいる息子に業を煮やした母親が、部屋に怒鳴り込んでくるまで続いた。


 結局その日の遊戯は散々だった。
 朝の大騒ぎで母には叱られ、いつも優しい祖父からもやんわり窘められた。
 学校に行けば提出用のノートを忘れていて、嫌味で口うるさい英語の教師にねちねち絡まれ、教室移動中には階段を踏み外して肝を冷やし、弁当の最後にとっておいた卵焼きは床に落とした。おまけに返ってきた小テストは、いつもよりシャレにならない点数で、しかも早起きのせいか、午後の授業は睡魔との戦いでろくにノートもとれていない。 
 それでも、どうにか遊戯は放課後を迎えた。

「遊戯〜、帰ろうぜ〜」
 SHRが終わって早々、城之内は遊戯に声をかけた。
 前々から城之内のバイトが休みの今日は、帰りに寄り道して遊ぶ約束をしていたのだ。
「うん! ちょっと待ってて」
 遊戯は急いで鞄に教科書を詰め込む。しかし、ふと何かを思いついたように暫く手を止め、申し訳なさそうな顔で城之内に切り出した。
「ゴメン、城之内くん。今日は…ママに急な用事を頼まれちゃってさ、ちょっと寄らなきゃいけないとこがあるんだ」
 遊戯を待つ間、本田と馬鹿話に興じていた城之内は一瞬戸惑ったが、すぐ笑顔になった。
「じゃあ、用事が済んでからでもいいぜ。そんな何時間もかかる訳じゃねーんだろ?」
「……ゴメン、結構待たせちゃうと思うし、前から約束してたのにホント急にゴメン! この埋め合わせは今度するから。――じゃあ、また明日」
 ほぼ一方的にまくし立てた遊戯は、逃げるように教室を後にした。
 遊戯の態度に残された城之内は唖然とするしかない。

「ふられたな」
「うっせえよ」
 本田のツッコミに城之内は所在なく頭を掻いた。家の事情でバイト三昧の城之内にとって、たまの休みに仲間と遊ぶ事は生活の潤いだった。ゲームをしたりハンバーガーショップへ寄ったり、些細な事でもかけがえのない一時だ。楽しみにしていたからこそ、遊戯の態度には正直ガッカリした。
 とは言え人には事情がある。謝りながら追求を逃れるようにして帰った遊戯の姿に、城之内は逆に申し訳ない気分になった。
 今までも遊戯の家庭の都合で約束が流れた事はあるし、バイト先が人手不足で城之内が駆り出される事もあった。それなのに遊戯は城之内が「気にするな」と声をかける暇もなく、走り去ってしまった。
 城之内に微かな不安がよぎった。
 遊戯は今まで家の用事で都合が悪くなった時、朝からそう言って詫びてくるのが常だった。今朝は泣き腫らした顔で登校してきて、理由を聞いてもぎこちない笑いで「悲しい夢を見たんだ」と言ったきりだった。
「遊戯のヤツ……誰かに虐められてたりとか、してねーよな?」
「誰が虐めんだ? 少なくとも今は学校のヤツで、遊戯に手を出すバカはいねーと思うぜ?」
 本田の言葉に頷きつつも不安が拭えないのは、遊戯は見かけで弱いと判断され、悪い人間に狙われやすいからだ。いざという場合はもう一人の遊戯に変わって戦うのだろうが、腕力で非力な事には変わらない。しかも遊戯は頑固な面があって、不当な暴力に対して城之内たちの力を頼らず自力で解決しようとする時がある。
 城之内はもやもやした物を感じたが、勝手に詮索しても仕方ないと、気持ちを切り替えた。


 遊戯は昨日と同じ坂道を歩いていた。
(……城之内くんには悪い事しちゃったな…)
 今日の約束を遊戯も楽しみにしていた。むしろ一日ついてないと思っていたからこそ、城之内と遊んで憂さを晴らしたかった。
 だが、朝からどうしても引っかかっていた事がある。思い出すと悲しくなるので考えないようにしていたのだが、それが余計拙かったのかも知れない。
(確かめるのなんて明日でもいいのに……)
 嘘をついてしまった後悔に苛まれながら、遊戯は海馬が入院している病院のロビーを通り、エレベーターに乗り込んだ。

「こんにちは」
「今日は…」
 ぺこりと頭を下げた遊戯に付き添いの女性は怪訝な顔をした。二日続きで遊戯が見舞いに訪れた事は無く、当然の戸惑いと言えた。
「ボクすぐ帰ります。……海馬くんにちょっと会わせてもらえませんか」

 海馬の病室は昨日と何も変わらなかった。唯一花瓶の花が新しくなっていたくらいで、ベッドの中に眠る海馬は時が止まっているかのようだ。
「……海馬くんは、昨夜ずっとここにいましたよね?」
 遊戯の質問に彼女は数秒沈黙したが、すぐ柔らかい微笑みを作った。
「瀬人様はずっとここにおられましたよ」
 意識のない海馬が何処へ行くというのか。愚かな問いかけに自分でも呆れかえる遊戯だった。
(やっぱり……夢だったんだなぁ……)
 海馬の眠り顔を見ていると昨夜の出来事が霞んでくる。どれ程リアルに感じても夢は夢でしかない。
 遊戯の邪な欲望など露も知らず、海馬は未だ心の迷宮を彷徨っている。クラスメイトというだけの繋がりしかない、遠い存在。
(ゴメンね海馬くん……。夢で君を勝手に汚した事、許して下さい……)
 所詮片思いなのだ。海馬に想いが届くはずがない。それならせめて――。
(……夢でいいから君に会いたい)


 その夜、遊戯は遅くまでTVゲームに興じていた。気晴らしに始めた昔のRPGだったが、瞼が重くなるまで楽しんでしまった。
 気が付くと時計は既に一時過ぎ。ゲーム機もそのままに布団に潜り込み、遊戯はスイッチが切れるように眠りに就いた。
 
 ほんの一瞬か、幾分か経ったのか、遊戯は前日同様、夜中に目が覚めた。
(……なんで…だろ……)
 遊戯はぼんやり薄暗い天井を眺めていたが、部屋の中に何かの気配を感じて怖気が立つ。
 身体は恐怖で金縛りのように固まっている。見開いた眼の端にゆらりと動くモノを捉え、脂汗が出た。
(ゆ、幽霊?)
 息を忘れるほどの恐ろしさで、とてもそれが何であるか確認出来ない。
 咄嗟に遊戯は心の中でお経を唱えた。家は無宗教だが、困った時の神頼みならぬ仏様頼り。夏に必ず見てしまう怪奇特集番組では、そうすれば大抵金縛りは解けていた。
「遊戯」
「うわあ!」
 突然名前を呼ばれて恐怖が限界値を超える。
 遊戯は叫び声と同時にベッドから跳ね起きた。聞き覚えのある声だった。
「か、か、海馬、くん!」
 ベッドの上で壁に背を付いて、遊戯は混乱していた。
 目の前には昨日と同じ格好と状況で、海馬が立っていた。
(な、んで? 海馬、くんは、入院してて、今日、確かめたのにッ!)
「夢だ!」
 遊戯は叫んだ。それしかあり得ない。
「これは夢だ! 早く覚めてくれ!」
 罪悪感と自己嫌悪で、遊戯はあらん限りの声で叫んだ。己の願望が見せた夢を繰り返すなど、浅ましすぎる。
 バシバシ音を立てて、遊戯は自分の頬を叩いた。しかし、遊戯にもたらされたのは、現実と同じ頬の痛みと手の平の痺れだった。
(そんな……こんな事って……)
 呆然とする遊戯を海馬は悲しそうに見つめ、ベッドの傍に佇んでいた。
「迷惑、だったか…」
 遊戯はその小さな声の主に目を向ける。
「……君は、何なの? 何者なんだ……」
 痛みを感じる夢はあるのだろうか。体温や匂いや味まで感じるなら、それは現実ではないのか。
 今、遊戯を動かすモノは恐怖よりも疑問だった。