真夜中の恋人たち


  ■1■


 電車を降り寂れた商店街を過ぎると、目的地までは長い坂道になる。
 駅前から出ているバスを使えばほんの5分の距離らしいのだが、バスの往復賃はM&Wのカードを2袋買っても余る金額だ。 
 限りあるお小遣いは大切に。
 そんな訳で今日も遊戯は坂道を歩いていた。
 夏の間はこの傾斜に随分苦しめられたが、目的の白い建物が見えてくると嬉しい気持ちになるのが救いだった。
 そこには海馬がいる。
 DEATH‐Tでもう一人の遊戯にマインドクラッシュを受けてから、海馬はずっとこの病院に入院していた。


――海馬くんのお見舞いに行かない?
 海馬の入院後、遊戯はいつものメンバーを誘ったのだが、皆の反応は冷たかった。
――あんなヤツ、心配してやるこたねぇよ!
――遊戯のじいさんもオレ達も死にそうなくらい酷い目に遭わされたんだぜ?
――…遊戯はやさしいから自分のせいでって責任感じてるんだね。でもあれは自業自得だよ。海馬くんにはあんまり関わらない方がいいよ?
 皆の言い分はもっともで遊戯は何も言えなかった。 
 遊戯も海馬を憎んだ時がある。海馬の心を直接砕いたのはもう一人の遊戯だが、彼の力を頼ったのは自分だ。その結果については今更後悔もないし、逆に杏子の言葉で遊戯は罪悪感を覚えた。
(ボクは優しくなんか無いよ。…責任も少しは感じてるけど,ホントは海馬くんに会いたいだけなんだから…)

 遊戯はそれ以来、皆がバイトで時間のある放課後を狙って、時々一人で見舞いに行っている。
 遊戯が行ったところで海馬の具合は良くなるものでもなく、むしろ最初の頃はモクバや世話役の女性にいい顔はされなかった。しかし、見舞いの回数が増えてくると一定の信用を得たのか、世話役の女性は遊戯と海馬を2人きりにしてくれるようになった。むろん彼女は同じ部屋の衝立越しに控えていて、いつでも職務に忠実だった。


「こんにちは」
「今日は」
 既に顔見知りの彼女は遊戯の姿を見ると微笑んで、いつものように椅子と飲み物を勧めてくれた。

「こんにちは、海馬くん。久しぶりだね」
 ベッドに眠る海馬の姿は衰弱で痛々しい。それでも、夏の頃より血色良く見えるのは秋風の爽やかさが病体に優しいからかも知れない。
「今日はクラスマッチがあったんだよ。男子はサッカーとバスケ。女子がバレーとバトミントン。ボクは城之内くんや本田くんと一緒にサッカーしたんだ。でも2回戦でA組に負けちゃって、杏子も出てるし女子のバレーを応援してたんだ。
「ホントはボクと本田くんはバスケの応援に行くつもりだったんだけど、城之内くんが「絶対バレーがいい」って譲らなくてさ〜…。何でかって言うとよその組のバレーの女子にブルマの子達がいたんだよね〜。まぁ…ブルマはボクも好きだけどさ。 
「杏子のチームは決勝まで行ったんだぜ。かなり接戦だったんだけどC組に負けちゃった。C組にはバレー部の子がいたんだって。狡いよね〜。前は同じ部活やってる人は出ちゃダメって言ってたのに…。
「後…そうそう、この前ね…」
 学校の出来事を海馬に報告するのは、遊戯にとって楽しい時間だった。初めて見舞いに来た時に間が持たなくて、苦し紛れに始めた事は秘密だ。
 時々遊戯は海馬が自分の語りかけを、「分かってるのかも…」と思う時があった。
 遊戯の声が楽しそうに弾めば海馬の寝顔は楽しげに見えたし、遊戯の声が沈んで途切れがちだと慰めるような労りを感じさせたからだ。
 しかし、遊戯の期待と思い込み、と言われれば反論出来る自信はない。
 やがて話題も尽き、遊戯は出されていた飲み物に口を付けた。
 
 遊戯が黙ってしまうと病室は静寂に包まれた。
 海馬の病室がある階は長期入院の患者が多い。遊戯が見舞いに来る時間帯は、時折付き添いの者やナースが通路を行き来するぐらいだ。
 遊戯はすることもなく海馬の寝顔を見詰めていた。
 端正に整った容姿は、美しい人形を思わせる。
 そんな海馬の顔の中で、唯一人間らしい生気を感じさせる部分が唇だった。
 薄い上唇は海馬の苛烈な性格や唇以外の造形バランスから見ても妥当な形なのだが、下唇はそれよりふっくらしていて、非常に劣情をそそる。
(ボクって結構薄情なのかも…。じいちゃんやみんなを苦しめた海馬くんを好きになっちゃうなんて)
 しかもその「好き」は友達としての範疇を超えている。
(ボクは杏子が好きだったんだけどなぁ…)
 
 突然風が出窓のカーテンを激しく揺らし、そばに置かれていた花瓶の花にぶつかった。こぼれて風に乗った花びらが海馬の上掛けに舞い落ちる。
 遊戯は反射的に腰を浮かし摘み取る。偶然海馬の顔を近くで覗き込む形になり、ドキリとした。何度も見舞いに来てはいたが、勧められた椅子の距離以上は近づかないようにしていたからだ。
 再び風でこぼれた花びらが、今度は海馬の髪に色付いた。
 遊戯は奇妙なデジャヴュを感じた。
(前にも…こんな風に花が……キレイで…よく似合ってた…)
 しかし、海馬と知り合ったのは高校生になってからだ。海馬に花など贈った記憶は無いし、元気だった頃の彼には花を添えてもミスマッチな気がした。
 急に胸が締め付けられたように息が詰まる。涙が出そうになる時はいつもそうだ。
(…なんでだよ。ボクは何も悲しくないのに)
 遊戯は海馬と初めて出会った時も、似たような事があったと思い出した。

 入学式当日、海馬は遊戯の名を呼び引き留めておきながら、「人違いだった」と去って行った。遊戯はと言うと、胸に切ない痛みが込み上げてきて涙を零すばかりだった。

(どうしてボクは君が好きなのかな)
(どうして君に触れたくなるんだろう)

――だって彼はボクの特別な人だから――

 どこかで誰かの声がした。
 それに気を取られた瞬間、遊戯は体の中から何かが抜け出るような錯覚に陥った。意識は明瞭で、もう一人の遊戯と入れ替わる時のような感覚の途切れはなかった。しかし、体は遊戯の意志とは逆に動いて、海馬の唇に自分のものを重ねていた。
 眠り姫を目覚めさせる為に王子がする、触れるだけのキスのように。
(なななな、何でボク海馬くんにキスしてんの?)
 海馬の唇は柔らかく懐かしい気がした。
(おかしいよ! ボクは初めてなのに〜。初めてはちゃんとコクってデートして公園かムードのいいとこで…、じゃなくって、体! 体がっ! 動かないぜ〜?)
 摩訶不思議としか言えない現象に遊戯は激しく混乱した。
(どどど、どうしよ〜〜!)
 無理な体勢も限界になった時、衝立越しに彼女の声がした。
「遊戯さん、お茶のお代わりはいかがですか?」
 その途端呪縛が解けて、遊戯は身を離す事が出来た。
「あ! いえ! いいです!」
 声が裏返る。 
 隣で控えていた彼女は、突然声をかけたせいで驚かせたと思ったらしい。丁寧に詫びられて遊戯は焦りつつ恐縮した。もし彼女に現場を見られたら言い逃れ出来ない状態だったのだ。
「ボク、そろそろ帰ります。お茶、ごちそうさまでした」
 彼女に不審がられない程度に急いで病室を後にする。
 海馬の顔は見直せなかった。


「あれって何だったんだろう…」
 パニック状態で病院から逃げ帰った遊戯も、夕食と入浴を済ませた今はさすがに落ち着いて考える余裕があった。寝転がったベッドの上で数時間前の事を思い返す。
 しかし、色々考えても行き着くところは一つしかない。
「魔が差したのかなぁ……」
(もう一人のボクが…って事はないよな。あるわけ無いぜー)
 きっとあれは海馬への欲望を抑えていた反動なのだろう。遊戯は元々海馬にキスしたいと思っていたし、意識のない彼と2人きりの状況は誘惑に満ちていて、むしろ今までよく我慢したと言うべきか。
(だからってこれじゃあ痴漢と一緒だぜ…。あーあ、最低だよボクは…)
 海馬の柔らかい唇を思い出す。
 彼の唇は部屋の空気に染まって乾いていた。押しつけただけにも関わらず甘かった気がした。
 遊戯は無意識に舌で自分の唇を舐める。
(……もっと味わっとけば、良かった…)
 股間に熱が溜まるのを感じ、右手を伸ばしかけて起き上がる。さすがに今日は自己嫌悪が大きくてそんな気になれなかった。


 その夜遊戯は昼間の疲れですぐ眠りについた。一度眠ると滅多な事では起きないのだが、ベッドに入った時間が早かったせいだろう、ふと夜中に目が覚めた。薄目で目覚まし時計を確かめると2時過ぎで、遊戯はまどろみつつ視線を部屋の中へ向けた。
 ドキリと心臓が跳ね上がる。
 ブラインドを閉め忘れた窓から月明かりが照らす部屋の中に、人影があった。
(…ママ? それともじいちゃん?)
 家族なら夜中に遊戯の部屋にいても不思議ではない。以前やはり夜中に目が覚めてぼんやりしていると、母親がこっそり部屋に来て遊戯の辞書を借りていった事があったのだ。
 しかし、今の人影は家族とは明らかに違う男のものだった。
(まさか泥棒?)
 遊戯は意を決して身を起こす。手にはいざという時のために枕を掴んでおいた。
 その人物を薄い月明かりで確かめた時、遊戯は威嚇の声を失った。
 男は俯き気味でその顔はよく見えない。だが、白いパジャマも栗色の髪も、今日間近で見た物によく似ていた。
「……か…いば…くん?」
 遊戯の不安な呟きに男は顔を上げる。
「…海馬、くん」
 遊戯の胸の鼓動は激しさの余り止まりそうだった。
(何で海馬くんがここにいるの? いつ意識が戻ったの? 幻? そうかも! おかしいもん! 海馬くんがボクの部屋にいるなんてあり得ないぜ〜〜!)
(幻、幻、これは幻! ぜ――ったい見間違い!)
 目を閉じ自分に言い聞かせる。海馬がいるなど遊戯の願望が見せた幻覚なのだ。心で繰り返し恐々目を開ける。
「ひいっ!」
 今度こそ心臓が止まるかと思った。
 幻の筈の海馬が目を閉じていた間にベッドの脇へ来て、遊戯を覗き込んでいた。間近で目が合った。もはや幻では片付けられない。
「あわわわわわ、うわっ! うわぁ!」
 逃げようとした体を壁に阻まれ遊戯は狼狽える。そんな遊戯の態度に、海馬は再び項垂れた。
 海馬らしくない反応に遊戯は戸惑い、やがて、過剰に怯える自分が海馬を「傷つけたのかも」と思った。
 遊戯が帰った後、海馬は目覚めたのかもしれない。病み上がりの体では、普通はすぐに動き回れないだろう。しかし、相手は海馬だ。彼なら常識に照らし合わせて不可能と思える事でも為し得そうだし、夜中に遊戯の部屋にいるのも、目的のために手段を選ばない彼ならやりかねないと思う。
 そんな仮定を考えていると徐々に動悸も収まってきた。
「…ごめん、びっくりしちゃって…。海馬くん元気になったんだね。良かった…。良かったホントに…」
 遊戯は安堵で思わず涙ぐむ。
「遊戯…」
 目の前の海馬は穏やかな表情で笑った。
 不意に甦る病院でのデジャヴュ。
 海馬に言いたい事も聞きたい事もたくさんあった。だが、気持ちと裏腹に言葉が出てこない。
 海馬の手が遊戯に伸ばされて、遊戯は求められているのだと思った。
 海馬が何故そんな態度に出るのか、裏があるとか罠だとか警戒する迷いも無く、その腕を引き寄せて抱きしめる。
「遊戯…ずっと逢いたかった」
「…ボクもだよ海馬くん」
 海馬の身体は泣きたくなるほど頼りなく冷たかった。そのままゆっくりベッドの中へ抱き込むと、海馬は遊戯にしがみつき、甘えるように頭を擦りつけてくる。
(かかか海馬くんがこんな事! か、かわいいぜ――! この際罠でも何でもいいや!) 
 急速に加熱した欲望に勢い付いて遊戯は海馬にキスをした。今度は咎められる心配も後ろめたさも無い。
 重ねた唇の合わせ目に舌先で触れると、海馬は拒むことなく遊戯を受け入れた。

  

  

■この話は20030629に発行した無料配布本、「真夜中の恋人」を少し直した物です。一応八回をめどに続く予定です。かなりのんびりまったりな更新になりそうなので、気の長い方のみよろしくお願いします。