GAME OF SECRET


  ■7■


 「ゲーム」十七日目。
 遊戯は朝食もそこそこに家を出た。
 前日から食欲のない遊戯を心配して、母親が粥を用意してくれたのだが、身体が受け付けないのだから仕方ない。無理にでも食べなければと思うものの、何を口にしても味を感じないため、食事をする事自体苦痛だった。 
 城之内は今日も早目に学校へ行くと言っていた。早く彼に会いたかった。
 遊戯は城之内の笑顔を思い出し、冷え切った心が暖まるのを感じた。


 学校に着くと城之内が下駄箱の所で待っていた。
「おはよう、城之内くん。こんな所で待ってなくても…」
 教室でと言いかけた遊戯の言葉を遮るようにして、城之内は紙を差し出した。その表情は強ばっていた。
「……」
 遊戯は渡された紙に目を通す。
 ノートほどの大きさの紙に、機械で書かれた精密な文字があった。

 遊戯は海馬とゲームをしている。
 海馬が一ヶ月学校に来られたら海馬の勝ち。
 遊戯はパズルを渡さなくてはならない。
 城之内はそれを邪魔するために海馬に嫌がらせをしていた。
 城之内が海馬への事件の犯人だ。



 遊戯は声もなく城之内に視線を戻す。
「クラス中の机ん中に入ってたらしくて、オレが来た時にはもう何人か読んだ後だったんだ。もちろん そいつらにはたちの悪い悪戯だって言ったけどよ…。海馬もいたんだ」
 城之内の最後の言葉に遊戯は息をのむ。
 この紙を見て海馬がどんなリアクションを取ってくるかなど、嫌でも予想が出来た。
「……なぁ遊戯、「ゲーム」の事は本田達にも、お前からちゃんと説明した方がいいぜ。こんな中傷信じないだろうけど、本当の事はまずお前から話すのが筋だろう」
 遊戯は城之内に頷き、その紙をグシャグシャにしたい衝動を抑えてポケットにねじ込んだ。

 
 二人が教室に入ると数人のクラスメイトの視線が集中した。心配そうな者もいれば明らかに好奇心だけの者もいた。
「遊戯、話がある」
 ガタリと音を立てて海馬が席から立ち上がる。そのまま海馬は遊戯の返事も待たず、後ろの戸口から廊下へ出た。
 遊戯は自分の席に鞄を置くと海馬を追いかける。一瞬躊躇ったものの、城之内は遊戯の後を追う。それに気付いた海馬は忌々しげな顔をした。
「貴様に用はない」
「お前にはなくてもこっちにはあるんだよ!」
 海馬に何を言われても食い下がる気でいた城之内は、海馬が自分を無視して屋上への階段を上がり出した事に違和感を覚えた。
 
 


 学校の中で人目を避けて話が出来る場所はさほど無い。遊戯のクラスのある棟で一番めぼしい場所は、やはり屋上だった。昼には人でごった返す場所も、まだ朝露のひやりとした空気が残っていた。
 海馬は丁寧にたたんだ紙を出してくる。
「これは何だ?」
「そんなのただのデマだぜ。城之内くんは昨日オレが話すまで「ゲーム」の事は知らなかった。嫌がらせなんてしてないぜ」
 遊戯は努めて冷静な声を返した。
「するんなら殴った方がはえーしな!」
「犬の分際で口を挟むな」
「何だとう!」
「海馬の挑発に乗っちゃダメだぜ、城之内くん」 
 いきり立つ城之内を遊戯は宥める。そう言われて城之内は熱くなりやすい性格からとはいえ、脊椎反射してしまった事に恥じ入った。
 城之内より一歩分海馬へ近い場所に立つ遊戯の姿は堂々としていた。昨日の同じ時間とは全く違う雄々しいオーラは、デュエルの時に感じる物と同じだった。
「……遊戯、貴様は自分が城之内に「ゲーム」の話をした事は認めるのだな?」
 遊戯は硬い表情のままこくりと頷いた。
「ではこれを書いたのは誰だ」
「……分からないぜ。オレが城之内くんに話をする前、人気がないのは確かめた。お前だってここに来て誰もいない事は直ぐ分かっただろう? オレは昨日の今の時間、ここで話をしたんだぜ」
 遊戯の言葉が終わりきらない内に給水塔のモーター音が鳴り始めた。
 海馬は屋上でそれを聞いた事がなかったのだろう。不審気に遊戯の後ろにそびえ立つ塔を見上げた。それは屋上への階段スペースに一体化して、周りをコンクリートで包まれている。天辺には屋根があり、一見何のために作られた物なのか分からない。
 給水塔は小さな振動と、低いながらも耳障りな音をいつまでも立て続けた。
 これでは話にならないと、三人は暫く黙り込む。
 
 城之内は「そういえば」と思い出し、遊戯に話しかけた。
「昨日遊戯が話してた時もこの音がしてたよな。オレは耳がいいから何とか聞こえたけど、おい海馬、今の俺の声が聞こえるか?」
 海馬は城之内の呼びかけに何の反応もない。城之内と海馬の距離はほんの五メートルといった所だ。怒鳴ればまだしも普通の会話程度なら、海馬の距離にいても聞こえない会話を誰が聞いたというのだろう。
 遊戯はふと、先日の事を思い出した。相棒が海馬に酷い目にあって落ち込んでいた時、身を隠していたのは――。
 遊戯は弾かれたようにその場を駆け出した。階段横の壁、他の棟からは見えない側へ走り寄る。
 デザインめいたクリーム色の装飾には、一センチにも満たない引っかかりが不規則に付いていた。
 遊戯は器用にそこに指と足を掛け、反動を付けて伸び上がり目的地へ登り着いた。相棒が城之内にも教えていないと言った秘密の場所だ。
「ゆ、遊戯、何処にいんだ?」
 遊戯はそこからひょいと顔を出し、屋上の城之内までの距離を確認する。目測で精々二メートル半と言った所だ。
 遊戯は登った時と同じ要領で屋上へ降りた。
「城之内くん。君はあそこに登れる事を知っていたかい?」
「知る訳ねえよ。あんなとこに何があるんだ?」
「あそこには給水塔のタンクを掃除する時の入り口があるんだぜ。戸口には鍵が掛かってるが、壊されて開けられたら学校の水に影響が出る。だから業者が掃除や点検の時に梯子でも使わない限り、登る所もないし誰も登ろうだなんて思わない…」
 いつの間にやらモーター音は止んでいた。
 遊戯は不思議がる城之内を置いて、憮然とした表情の海馬に向き直る。
「もしかしたらあそこに誰かがいて、聞かれたのかも知れない。昨日あそこまでは調べていないからな…」
 海馬は事の成り行きを黙って見ていたが、遊戯の出した答えに鼻先で笑った。
「オレは「ゲーム」の話を誰に聞かれようと平気だが、事が大きくなればもう一人の遊戯が困る事になるだろうな。この紙にはオレが勝った時の報酬について書かれてあるが、逆はない。遊戯がオレに勝った時、何を望むのか、ゴミ共にはさぞかし興味深い事だろう。本当の事を言っても信じて貰えるかな…?」
 それはこの遊戯に向けての皮肉が含まれていた。お前の浅はかな奸計から、貴様の相棒を余計な厄介事に巻き込む事になるのだと。
 遊戯は落ち着いていた。
「相棒はオレが守る。城之内くんにかけられた疑いも晴らしてみせる。「ゲーム」はともかくお前への嫌がらせについては、城之内くんは潔白だ。
「きっと犯人は嫌がらせ犯と関わりがあって、「ゲーム」の話に便乗し、城之内くんを陥れようとしているんだぜ。オレはそんな卑怯なヤツを絶対に許さない」
「遊戯…」
 城之内は惚れ惚れと遊戯を見つめた。自信に満ちた彼の姿は、相手が何者であろうとも打ち砕く正義の力に溢れていた。
 城之内はデュエルの時遊戯の助言で助けられた事があった。今度は自分が遊戯を助ける番なのだと、引っかかっていた事を切り出した。
「このデマを書いたのは、海馬、お前じゃねえのか?」
 唐突な城之内の問いかけに遊戯は驚いて振り返る。
 海馬は僅かばかり眉を顰めた。
「昨日誰かがオレと遊戯の話を聞いてたって言う仮説より、お前が書いたって思った方が納得出来るぜ。
「お前は「ゲーム」の当事者だし動機だってある。しかもオレより先に学校に来てた。遊戯だけに話があるくせにオレが付いて来るのを邪魔しなかったのは、何か心やましい事があるからじゃないのか」
 城之内の推理に海馬は大きく肩を振るわせて笑い出した。
「遊戯、貴様の犬は面白いな。己にオレが貴重な時間を割いてやるだけの価値があると思い込んでいるとはな」
「城之内くんを侮辱するな! 城之内くんに疑われても仕方ない、日頃の行動を顧みるべきだぜ!」
 おかしくて堪らないと笑い続ける海馬に、遊戯はきつく忠告する。 
 半ば無視されている城之内は海馬に文句を言おうとしたが、遊戯にやんわりと阻まれた。
「城之内くん、これを書いたのは海馬じゃないぜ」
 海馬は遊戯が城之内に「ゲーム」の話をした事を、今朝のビラを見るまで知らなかったのだ。
 何よりもビラに書かれている内容は昨日の会話を聞いた者しか知らない事だ。「ゲーム」に勝った海馬が得る報酬が千年パズルだというのは、城之内の勘違いなのだから。
 城之内は遊戯に何故そうハッキリ言い切れるのか、視線で問いかける。だが、遊戯が答えられる訳がない。「ゲーム」に何が賭けられているのか城之内が知れば、彼を今よりも深みへと巻き込んでしまうだろう。
 城之内への気遣いもさることながら、遊戯は恐れてもいた。真実を知った城之内が今と同じ態度でいてくれるのか、自信が無かったのだ。
「城之内くんは何も心配要らないぜ。こんな中傷を書き立てたヤツはオレが見つけ出して、君にキッチリ詫びさせる。…オレを信じてくれ」
「当たり前じゃねーか。オレは誰よりお前を信頼してるぜ!」
 誤魔化された気がしたものの、城之内は揺るぎない信念を口にした。
 眼前のやりとりを見ていた海馬は、二人が気付かない程度の皮肉めいた笑いで口の端を歪めた。


「海馬、お前の話はそれだけか。これ以上用がないならオレは教室に戻るぜ」
 遊戯は早く確かめたかった。給水塔に隠れ場所がある事を知る人物に、一人だけだが心当たりがあったからだ。
 海馬が何も言わないので遊戯はさっさと踵を返して戸口に向かう。共に立ち去ろうとした城之内を、海馬は呼び止めた。
「城之内、話がある」
「オレには無いんじゃなかったのかよ」
「相手にしない方がいいぜ、城之内くん」
 遊戯は海馬に振り返った城之内へ忠告した。城之内は「大丈夫だって」と遊戯を安心させるように笑顔を作った。
「海馬とケンカしたりしねーぜ。どうせもうすぐ予鈴だし、直ぐ戻る。遊戯は早く帰って本田達が来てたら説明した方がいいぜ」
 城之内に言われて、初めて遊戯は自分がまずやるべき事を見失っていた事に気付いた。給水塔に潜んでいた人物の事より、仲間へ「ゲーム」の説明をしなければならない。
 遊戯は時々こんな風に自分の考えに囚われて視野が狭くなる時があった。そんな時いつも遊戯が進むべき正しい方向を指し示してくれたのは相棒だった。
 遊戯は無意識に胸のパズルを掴もうとして、付けていなかった事を思い出す。どれ程己の半身に助けられてきたか思い知らされた。
「…じゃあ、海馬の口車には気を付けて…」
 遊戯は小さく囁いて階段を下りた。



 遊戯が教室に戻った頃には、既にクラスの大半と仲間たちがビラを片手に当事者のいないまま激論を交わしていた。
 幸い本田を始めとする遊戯の仲間たちや、メンバーと仲の良いクラスメイトは「ゲーム」の話に驚きながらも理解を示してくれた。城之内の嫌がらせ云々の件も「根も葉もないでっち上げだ」と、ビラを撒いた犯人に対して憤ったぐらいだ。
 問題は遊戯と海馬の「ゲーム」によって普通の日常を乱されたと感じている者たちと、元々、城之内に反感を持っている一派だった。
 男たちの中には良くも悪くも目立ちがちな城之内を、疎ましく感じているグループが存在した。彼らは「ゲーム」については海馬を敵に回す気はなく、むしろ保身に回って我関せずの態度だったが、その分の腹いせに殊更城之内を中傷していた。ビラに書かれていた事は「火種のない所に煙は立たない」と言う理屈らしい。


「武藤、お前が「ゲーム」に勝ったら海馬から何をもらえるんだ?」
 例のビラをひらひらさせながら武田が聞いてきた。武田は反城之内派のリーダー格だ。
「遊戯、相手にすんな」
 隣にいた本田が身近にいる者だけに聞こえる声で忠告した。しかし、遊戯は敢えて武田の問いに答えた。相棒なら相手の態度がどうあれ、誠実に相手をするだろうと思ったからだ。
「……海馬くんが友達になってくれるって、約束してくれたんだ」
 遊戯の返事に武田とその周りの数人は、沈黙の後顔を見合わせ失笑した。
「友達ぃ? 何? お前ゲームの勝敗に賭けるほど、海馬の友達になりたいのかよ。それって変じゃねぇ?」
「うっせえな! 遊戯が何を賭けにしたってお前らには関係ねーだろが!」
 本田は嘲笑をかき消そうと怒鳴ったが、武田たちはどんな答えであろうと混ぜ返す気だったのだろう。仲間たちと勝手に盛り上がっている。
「あんなに友達はいらねえって言ってるヤツにしつこいよな。嫌がらせかよ」
「いやいや、「友達」という名の「便利くん」とか「奴隷ちゃん」かもしれねーぜ?」
「大人しそうな顔して、武藤もエグイ条件出すよな〜」
 仲間内の談笑程度の盛り上がりでも、クラスの中には微妙な空気が生まれたのは確かだ。遊戯擁護の者以外は、武田たちが自分らの気持ちを代弁してくれたと思った者もいたのだろうから。
――真実を言っても信じて貰えるかな…?
 不意に海馬の声が甦る。遊戯の心に不安という影がじわりと忍び寄った。
「遊戯、気にすんな」
「あいつら城之内のついでにお前を叩いて、憂さ晴らししたいだけなんだぜ」
「あんなバカたちの言う事、真に受けちゃだめだよ」
 本田を筆頭に井沢や真中など、遊戯が海馬との事件で行方不明になった時、率先して探すのを手伝ってくれた者たちに加え、杏子と仲の良い女子も何人か遊戯を励ましてくれた。
「……ありがとう」
 相棒ならきっとそう返すはず。同時にそれは遊戯の本心でもあった。いつもの仲間ほどではないが、相棒の大切な友達たちだ。反感を持たれても仕方のない状況でも、味方であろうとしてくれるのは、普段の相棒の人となりをきちんと理解してくれているからだろう。
 一方武田たちの話題は遊戯から城之内に戻っていた。
「元々海馬と仲の悪いあいつなら、やりかねないんじゃねーの?」
「なにしろ昔は――中学の「狂犬」だからな」
 武田たちの馬鹿笑いに耐えきれなくなった本田がもう一度怒鳴ろうとした時、城之内が屋上から帰ってきた。
「武田、盛り上がってんなぁ。で? オレが何だって?」
 途端に武田らは無言になると輪を解いてそれぞれの席に散っていった。人数で武田たちが勝ろうと、ケンカになれば城之内一人に叶わないと分かっているからだ。
「城之内くん」
 遊戯は思わず駆け寄っていた。
「大丈夫だったかい? 海馬は何の用だったんだ?」
「心配いらねーって。いつもの犬だ何だと嫌味言ってきたからよ、放ってきたぜ」
 城之内の返事にほっとした遊戯だったが、視線に気付き周りを見ると井沢や真中たちが怪訝な顔で遊戯を見ていた。
「遊戯、ちょっと…」
 杏子に制服の裾を引っ張られ、遊戯は教室の隅についていく。
「さっき海馬くんの事呼び捨てになってたわよ。いつもの遊戯は絶対くん付けなんだから、みんなビックリしてたじゃない。それから、言葉遣いも……」
「……すまない」
 杏子に注意されてやっと遊戯は合点がいった。言葉遣いには気を付けていたつもりだったが、気付かないうちに地が出ていたのだ。
「これからはもっと気を付けるよ」
 遊戯が相棒の声色を真似ると、杏子は泣き笑いのような不思議な顔をした。

 本鈴が鳴る前には海馬も姿を見せたが、海馬にビラの事を追求出来る者がいる訳もなく、教室の中は「ゲーム」が始まった頃と同じような緊張感が漂う事となった。
 

 二時間目の授業は化学で教室移動だった。
遊戯は目当ての人物に近付くと、通りすがりを装い、本人だけに分かる小声で一言伝えた。
「後で話がある」
 離れかける一瞬、やはり遊戯だけに聞こえるように御伽は返してきた。
「ボクもさ。――昼休み、技術教室で待ってる」



 技術教室の入り口に鍵はかかっていなかった。遊戯は躊躇なく引き戸を開けて、待ち人が既に来ている事を確認する。
「心配しなくてもボクしかいないよ。技術の先生に鍵を貸してもらったんだ」
 技術教室の中は静かだった。学生が多い棟から離れているからだろう。
 遊戯はポケットからビラを出し、御伽に向けて広げた。
「……これはお前が書いたんじゃないのか?」
「何故?」
「お前は屋上の秘密の場所を知っている。昨日のオレと城之内くんの会話はそこにいた者くらいしか、聞こえなかったはずだぜ」
 御伽は「ふうん」と遊戯の話に頷いた。
「あの場所はもう一人の遊戯くんだって、城之内にも教えていなかったじゃないか。本田や獏良くんも知ってて言わないだけだとは、考えないのかい?」
「本田くんも獏良くんも昨日はオレより後に来た。ハッキリ覚えてるぜ」
「……教室に鞄が無くても登校している可能性は? ボクは君に信用されていないから仕方ないけど、ボクを犯人扱いするには証拠が足りなさすぎじゃないか?」
 御伽は遊戯がどれ程きつく睨んでも飄々としている。遊戯とて直感的に御伽を疑っただけで、確証があった訳ではない。そもそも御伽が犯人だったとしても、ビラを撒いて彼にメリットがあるとは思えなかった。
 相棒がいれば「御伽くんが犯人な訳ないだろ!」と即、否定されただろう。例え御伽以外あり得ないという証拠があったとしても。
 遊戯はやり場のない苛立ちを覚え苦々しく吐き捨てる。
「……海馬から相棒を庇ってくれた時の事は礼を言うぜ。だが、これ以上相棒には近付くな」
 くるりと踵を返した遊戯に、御伽はため息混じりで答えた。
「そんな事君に言われる筋合いないよ。ボクと遊戯くんは友達なんだから」
「友達?」 
 振り返った遊戯は残忍な薄笑いを浮かべていた。
「おめでたいぜ。相棒にあれだけの事をしておいて、「友達」か…。
「相棒はお前の身の上を聞いて同情してるだけだぜ。実の父親に復讐の道具にされてたなんて可哀想、ってな。相棒は優しいからな」
「そうだね。遊戯くんは優しいよ。器が大きいって言った方がしっくり来る。さすが「ファラオの魂」だなんて得体の知れない君を、心の中に住まわせていられるだけの事はあるよ」
 途端に技術室の中は息苦しい緊張に包まれた。鳥肌が立ち逃げ出したくなる程の威圧感に、御伽は身震いする。この場に城之内たちがいたとしても、遊戯の気配に圧倒されて後さじったかもしれない。
 それは潜在的な恐怖だった。己とは違う未知の力を持つ存在への、畏怖とも言えるだろう。
 だが、御伽は目の前の存在に飲まれないよう踏みとどまった。
「遊戯くんとケンカしたんだってね」
 昨日からこちらの遊戯がパズルを付けないまま登校している理由を、遊戯は仲間内にそう説明した。
「それに書いてる海馬くんとのゲーム絡みだって話だけど、ホントにそうなのかな…?」
「……何が言いたい」
「ボクも君を信用してないって事さ。君はこの前遊戯くんがピンチの時に出てこなかった。それは海馬くんが本気じゃないと、分かってたからじゃないのか? …だとしたら、君は海馬くんを悪者にしておきたかったんだ。自分のために」
 遊戯はせせら笑う。その目は眼前の者を射殺さんばかりに冷たかった。
「遊戯くんは「ファラオの魂」である君をこの世界へ呼び戻した存在、いわば君の絶対神だ。彼を失う事は君の死を意味する。それを火事の時、思い知ったんだろう?
「だからあの時君は遊戯くんに教えなかった。遊戯くんの心を敵対している海馬くんに、寄せて欲しくなかったから。……違うかい?」
「推測の話はウンザリだぜ!」
「君が嘘を付いてる事は推測じゃない。事実だ!
「遊戯くんはパズルを賭けたりしない。君を利用される事の辛さを誰よりも分かってる彼が、海馬くんの友達なりたさでゲームに使うなんて、ありえない。
「遊戯くんは今どうしてるの? 彼が入れ替われないようにパズルを隠して、君は何をするつもりなんだ!」
 遊戯はきな臭い匂いを感じて周りを伺った。教室の中は二人分の気配があるだけで、火など燃えたりしていない。
 仮にデジャヴュを覚えたのだとしても、遊戯はあの時パズルを砕かれ闇の中にいた。物が焼ける匂いも、炎の熱も、相棒や城之内たちの話で想像した物だ。それとも心が入れ替わっていようと、同じ肉体に刻み込まれた恐怖の記憶が、幻覚を起こしているのだろうか。
 遊戯は目眩を感じ、思わず傍らの机に手をついた。
「海馬くんの本当の狙いは、パズルじゃないんだろう?」
「お前の推測は聞き飽きたと、言ったはずだぜ」
 遊戯は苦しい息の中憎まれ口を叩いた。部屋の中は何も変わらない。ただ暑かった。窓も戸口も五月の晴天だというのに、締め切っているからかも知れない。
「海馬くんはね、ゲームの前からほとんど毎日学校に来ていたよ。教室の中に入ってくるのは週一二回ってとこだけど、いつも廊下から教室を覗いてた」
「何でお前が、そんな事を、知ってるんだ。まさか、お前、海馬のお友達かよ」
 カラカラになった口の中を何度も湿らせて、遊戯は悪態を付いた。背中には気持ち悪い汗をかいていた。
「ボクの席は廊下側だろ? 授業中視線を感じるたび後ろを見ると、丁度廊下の海馬くんが見えるんだ。彼にはそこがベストポジションなんだと思うよ。遊戯くんを見るのに」
 遊戯は唇の端を力無く吊り上げた。何故そんな事が分かるのか、説明しろと問いただす気力もない。床が揺れている気がした。
「君たちは時々授業中、入れ替わってる時があるだろう? 遊戯くんが眠たい時とか、体育の後で疲れてる時。君たちの事を知ってるボクらには分かる。例え後ろ姿で声を聞かなくとも――。
「海馬くんもそうなんだ。彼は君が出ている時はすぐ帰ってしまう。海馬くんは遊戯くんの姿を見るために、学校に来てたんだ」
「海馬が何をしに学校へ来ているかなんて、海馬にしか分からないぜ。暇人め……海馬観察記録でも付けてるのか?」
 遊戯は寄りかかっていた机から離れ歩き出した。暑くて堪らなかった。
 ふらふらと戸口に向かった遊戯を、御伽は追いかけ腕を掴んで引き留める。
「君はいつまで遊戯くんのフリをするつもりなんだ! 遊戯くんの代わりが出来ると思ってるのか? 誰も気が付かないとでも?だとしたら君は傲慢だ!」
「離せ!」
 遊戯は御伽の腕を振りほどこうとしたが出来なかった。御伽は遊戯が逃げようとしたかに見えたのかも知れない。遊戯はただ戸を開けようとしただけだ。余りに暑くて、せめて外の空気に触れようと。
それを伝えるために御伽の顔を見ると、彼は今にも泣きそうな表情だった。
「ボクは小さな頃からずっと、父さんの復讐を果たすための道具として心を閉ざして生きてきた。どこにも居場所がなかった。遊戯くんがボクと父さんの罪を許してくれたから、ボクはここにいられるんだ。
「遊戯くんの居場所を、遊戯くんが命がけで守った君が奪わないでくれ…!」
 遊戯はどうにか御伽の腕を振りきって、引き戸に手をかけた。背後からは業火の音がした。見えない炎に追われているとしか思えない。
 廊下から流れ込んできた空気は、窓から差す日差しで暖まっていた。それでも、遊戯は一瞬の涼を感じる事が出来た。同時にまばゆい光に視界が眩み床が回転する。
「遊戯? 遊戯!」
 御伽の声を遠くに感じながら、遊戯は暗闇の中に落ちていった。 



 遊戯が目を覚ますと、そこは保健室だった。
 訳が分からないまま起きあがろうとした遊戯に気付いたのか、保健医が声をかけてきた。
「もう少しで六時間目も終わるから、それまでは寝てなさい。夕べは遅くまで起きてたの? 顔色も悪いわ。ちゃんと三食取ってる? 成長期なんだから、睡眠と食事は大事にしないとね」
 遊戯は素直に枕に頭を戻した。
 保健医の話では昼休みに倒れて担ぎ込まれたのだという。技術室の戸を開けた時、床が回転したと感じたのは遊戯が倒れたからだった。その時にぶつけたのか右肩が痛んだ。
 御伽に借りを作ってしまったことが悔やまれたが、御伽は遊戯ではなく、同じ身体の相棒を助けたつもりかも知れないと思い直した。
「六時間目が終わる頃には教室に戻れるわね?」
 元からそのつもりだった遊戯が怪訝な顔をすると、保健医は優しい眼差しのまま、小さく苦笑いした。あなたのお友達は元気だけど騒々しいから、と。




 普段の遊戯ならとっくに寝息をたてて、夢を楽しんでいる時刻。遊戯はベッドの中、ただ目を閉じ横たわっていた。
 彼はおもむろに起き上がると、机の引き出しからパズルを取り出した。月明かりに輝くパズルは、まるで彼の仕打ちを責めているのか、いつもより冷たかった。
 ベッドに戻った遊戯はパズルを大切に抱え込み、今度は意識を心の奥底へ沈める。魂が抜けていくような心許ない感覚に、肌が粟立った。


 いつもの場所に素足で立つと、冷え冷えとした感触が伝わってくる。相棒が心の部屋に閉じこもって以来、お互いの部屋を繋ぐこの場所からは、自分の心の部屋と同じ冷気を感じた。
 遊戯は重い足を動かし相棒の部屋の前へ着くと、優しくノックした。何度繰り返そうと反応のないドアに、思わず縋り付く。
「相棒……相棒…。聞こえてるんだろう? オレが悪かった。もう何もしない。約束する。お前の顔を見て謝りたい。出てきてもらえないか……」
 しばらく息を殺し部屋の中を窺ってみても、物音一つ感じない。それとも彼は遊戯の存在に怯えて、息を潜めているのだろうか。
「……オレを許せないなら、開けなくていい。…せめて、声を聞かせてくれ……。頼む……相棒」
 遊戯は許しを請うために跪く。足下からの冷気に体力が吸い取られている気がした。
「相棒…」
 喉元まで迫り上がってきた塊を、遊戯はどうにか押さえ込む。吐き出してしまえば楽になるのだろうが、怯えさせたくなかった。何よりそんな無様な姿はこれ以上曝したくない。
 御伽にパズルを砕かれて闇に突き落とされた時でさえ、これほどの不安はなかった。遊戯は常に相棒の気持ちを感じていたし、絶対的な信頼感で満たされていたからだ。
 今、遊戯の胸にあるのは苦い後悔ばかりだ。
 誰よりも大切にしていた特別な存在を、最悪の形で裏切ってしまったのだから。
 奪った相棒の唇が柔らかだったのかさえ、覚えていない。思い出せるのは泣き顔だった。
「相棒……。いっそオレを閉じこめてくれ――」