GAME OF SECRET


   ■5■


 バスの中、城之内はあくびを噛み殺す。
 新聞配達のバイトが終わった後は仮眠を取り、遅刻しない程度の時間に起きるのが中学時代からの習慣になっているのだが、昨日今日と朝の仮眠を取らず起きていたのだ。ちなみに夜のバイトから帰って眠ったのは一時過ぎ。新聞配達に行くために起きたのは四時前だった。
「ふ…あ……」
 もう一度あくびをした城之内は、眠い目をゴシゴシ擦った。
「……やっぱ三時間はきちーな…」
 知らず独り言を言ってしまう。
 バスが通学ピークより早い時間帯のため、座れたのが救いだった。
 遅刻などしょっちゅうなのだが、城之内は当分遅刻はしないと決めたのだ。
 理由は一昨日の「事件」だ。
 

 その日、うっかり寝過ごして一時間目の途中から教室に入ると、クラスの空気が変だった。妙な重苦しさと、城之内が来た事によって何かが起きそうだと言わんばかりのざわめきがあった。
 本田を見ると、途方に暮れた顔で遊戯の席を見るように促される。遊戯は鞄があるのにいなかった。
 見回すと御伽の姿もなかった。
 獏良は「何だかよく分からない」という顔で、杏子は、泣いた跡があった。
 気の強い男勝りな杏子が、目元を赤くする程泣くような事があって、遊戯がいない。
 城之内をちらちら窺ってくるクラスメイトの視線は海馬へと続き、ひそひそ噂されている。
 咄嗟に城之内は、「海馬だ」と確信した。

「一体何があったんだ?」
 城之内が休み時間早々聞くと、朝の事件を知らされた。黒板と机の落書きを消してくれた遊戯に、海馬が何をしたのかを。
 城之内は怒りが込み上げて拳を握ったが、本田に素早く諭された。
「海馬より遊戯だ。朝から探してるのにどこにもいないんだ」
 城之内と仲間達は遊戯を探した。杏子と仲の良い女子も、屋上の昼食仲間の井沢たち男子も、それぞれ休み時間だけでもと協力してくれた。
「オレはどうせ遅刻してっから、二時間目も探すわ」
 そう言って城之内は一人校内を回った。教師に見つかって怒鳴られては逃げて、それでも、隈なく学校内を探したのだ。
 遊戯は見つからなかった。遊戯を探しに行ったきり帰ってこないという御伽も。
 城之内は御伽を今でも信用していない。御伽のせいで火事に巻き込まれ、遊戯は自分の命ともう一人の遊戯まで奪われるところだったのだ。
 遊戯は事件の後、御伽とすっかり友達づきあいだが、城之内は我慢をしていただけだった。
「オレが、遅刻せずに来てたら……」
 御伽のおかげで遊戯が助かったのだと聞かされても、素直に感謝出来なかった。逆に自分がその場にいたら、遊戯をそんな目には遭わせなかったと思った。
 
 二時間目が終わる頃を見計らって一旦教室に戻ると、遊戯と御伽が帰ってきた。
「みんな、心配かけてごめん。ありがとう。ボクならもう大丈夫だぜ!」
 遊戯は随分泣いたのか目元が腫れていた。しかし、表情は何かを吹っ切ったかのように清々しかった。
「だから海馬くんにケンカ売ったりしないでね、城之内くん」
 城之内は遊戯にそう言われて、海馬への許し難い怒りを抑え込むしかなかった。
 海馬が毎日学校に来るようになってから、遊戯はあからさまに海馬を無視していた。それは海馬と城之内を争わせないようにするための、遊戯なりの気配りだと気付いていた。
 ここで城之内が怒りに任せて海馬と事を大きくすると、今までの遊戯の努力や心遣いを無にしてしまう。
 遊戯が海馬に親しみを持っていて、常に友達になりたいと思っている事は、嫌でも知っている。御伽の時同様、相手の罪を憎んでも、本人とは切り離す事が出来るのが遊戯の凄い所だと思う。
「城之内くんがもし停学なんて事になったら嫌だよ。……ボク泣いちゃう」
「…しゃーねえなぁ」
 遊戯の最後のセリフは、背中がむず痒くなる程かわいく作った声だった。城之内はそれを受けてわざとぶっきらぼうに答えたのだ。
 遊戯が照れて「えへへ」と笑ったので、城之内も笑顔になった。


『次は〜童実野高校前〜童実野高校前〜』
 バスのアナウンスに城之内は下車ボタンを押す。
 タラップを降り大きく伸びをした。
 海馬への嫌がらせはもう起こらないだろう。当然、遊戯が海馬を助けようとする事も。
 遊戯の身を案じて城之内が学校へ早く来ても、寝不足で眠いだけだ。
 それでも、城之内は嫌なのだ。自分がいておかしくなかった時間の場所で、大事な人が傷つけられて何も出来ないでいるなど耐えられない。
 遊戯は城之内と同じ高校生の男だ。こんな気持ちは「遊戯に対しての驕りでは?」とも思う。
 遊戯は決して弱くない。嫌な事は嫌だと、悪い事は悪いと誰にでも言える。だが、暴力に立ち向かうには小さく非力だ。デュエルでは無敵のもう一人の遊戯も。
 遊戯に頼まれた訳ではない。城之内が出来る範囲の中で遊戯を助けたいと思うだけだ。いざと言う時同じ場所にいたい。
 せめて海馬が学校に来なくなるまでは。
 城之内は何度目かのあくびをしつつ、学校へ向かった。


 教室に入ると早い時間なので生徒も疎らだった。
 城之内は遊戯を見つけ近付いた。
 遊戯は一番端の窓辺でじっと外を眺めている。普段遊戯は朝が弱いので、遅刻ギリギリな事が多い。
「おっす、遊戯。早いじゃん」
「……城之内くん…」
 小さく「おはよう」と振り返ったのはもう一人の遊戯だった。
「あれ…? 珍しいな、お前の方なんて」
 城之内は自身が遊戯を見間違えた事にも驚いた。

 元々二人の遊戯は同じ体だ。心が入れ替わっても肉体に大きな変化がある訳ではない。優しい眼差しから鋭い眼力を持つ者へ表情が変わるぐらいで、単なるクラスメイトなら「機嫌が悪いのか?」と思う程度の違いだろう。
 だが、醸し出す雰囲気は全く違う。こちらの遊戯はいつでも背筋が伸びて、研ぎ澄まされた刃物のような存在感があった。 
 獏良は「もう一人の遊戯くんには常人じゃないオーラがあるよね」と言う。「彼はファラオの魂らしいんだ…」と、いつもの遊戯に教えられた時、そうかもしれないと皆思った。
 現実的には荒唐無稽な話だが、実際彼とパズルの不思議な力で数々の危機を乗り越えられて来たのだ。
 例え表情が見えなくても、遠い場所から見つけても、城之内やその仲間達は二人を見分けられた。いわばそれは遊戯の秘密を共有する「仲間」として、信頼の基準でもあった。

「何かあったのか?」
 城之内がうっかり見間違える程、目の前の遊戯は覇気が無い。普段の遊戯が落ち込んでいる時よりも、沈んで頼りない顔だ。
 目元は泣き腫らした跡に見える。この遊戯の泣き顔など城之内は見た事がないし、想像もつかない。
 彼の胸には二人の心を入れ替える時になくてはならない、宝物のパズルが無かった。
「まさか! パズル無くしたのか?」
 遊戯はそれに首を振る。
「パズルは、家の引き出しにあるんだぜ…」
「なんだ〜、ビックリさせんなよ〜」
 城之内は大袈裟なくらいに力の抜けた声を出した。それでも、遊戯は硬い表情を崩さない。
「……あっちの遊戯とケンカでもしたんか?」
 耳打ちすると遊戯は驚いて顔を上げた。城之内はカマを掛けただけだが、外れていなかったらしい。
「んな顔すんな、分かるっつーの。……しかもお前の方が悪いんだろ…?」
「……城之内くんは何でもお見通しなんだな…」
 遊戯は再び視線を床に落とすと、それきり固く口を閉ざした。
 デュエルの時や普段の遊戯がピンチの時に現れる事が多いこの遊戯は、同性の城之内から見ても文句なしにカッコイイ。相手が誰であろうと卑怯な手を使うヤツには容赦ないが、仲間には優しく頼もしい味方だ。城之内も何度か助けられている。
 城之内はゴホンとわざとらしく咳をした。
「あ〜、困った事があるなら、「お兄ちゃん」に打ち明けてみねぇか?」
 普段の遊戯と時々する「兄弟ごっこ遊び」だった。
 誕生日で言えば六月と一月で、半年分遊戯の方が「お兄さん」だが、城之内は静香という妹がいる正真正銘の「お兄ちゃん」だ。お互いちょっと困った事がある時によく使っていた。

――兄さん、お腹がすいたのにお小遣いが足りません!
――よし、ここはお兄ちゃんがハンバーガーでいいなら奢ってやろう!

 そんなアホなノリの遊びだが、一人っ子の遊戯は「面白い」と気に入っていた。
 こちらの遊戯には初めて振る遊びだが、これで少し気楽になってくれればいい。
 遊戯は小さく笑った。苦笑でも笑える元気があるうちはまだ何とかなる。
「……じゃあ、「お兄ちゃん」……少し話を聞いてくれるかい?」
「任せとけ!」


「大丈夫、誰もいねーぜ」
 誰にも聞かれたくないと遊戯が言うので、城之内は屋上をぐるりと回って確かめた。屋上への階段の扉は開けておく。
「こうしときゃ、下から誰か来たらすぐ分かるからな」
 念のため入り口傍の壁に背もたれる。海馬に「犬」呼ばわりされる城之内は、実は普通の人間より耳がいい。もっとも海馬が「犬」と呼ぶのは単なる嫌がらせだろう。
 向かいに立っていた遊戯は躊躇した後、城之内の隣の壁へ同じように背もたれた。
 確かにその方が話をしやすいよなと城之内は思ったが、遊戯には別の意味があった。
「!」
 不意に遊戯から手を握られて、心臓が飛び上がる。こちらの遊戯にそんな事をされるのは初めてだった。
「ゆ…」
 何かの冗談としか思えない城之内が手を引こうとすると、遊戯はぎゅっと握りしめてきた。俯いた顔は癖のある髪の毛で表情が見えない。
 この遊戯はしそうにないと思える事だからこそ、城之内は頼られているのだと感じた。
 深い絆で結ばれている二人の遊戯がケンカなど、それこそ初めてではないのだろうか。ゲームには強い彼も、一人では仲直りのヒントが見つけられず不安なのだろう。
 城之内は微笑ましい気持ちで遊戯の手を強く握り返す。
 遊戯が窺うような目で見上げてくる。そんな顔は彼に似合わない。
「オレじゃ今一頼りねーだろうけど、溜めてるもん吐き出すだけで楽になるぜ?「お兄ちゃん」に聞かせてみ?」
 冗談ぽく言うと遊戯はさっきより自然に笑った。その笑顔に城之内は少しときめいた。

 屋上にある給水塔が耳障りなモーター音を立て始める。登校する生徒が増えて水の使用量が多くなったのだろう。校庭からはスプリンクラーが動く音がした。
 遊戯は再び俯き暫く経ってから、ようやく苦しそうに罪を告白した。
「相棒に、酷い事をしてしまったんだ…」
 遊戯の声は近くでも聞き取りにくかったが、幸い城之内は耳がいい。
 黙り込む遊戯の手を、城之内は軽い握りから少し強くする。頑張れと伝えるために。
「……相棒とケンカになって、オレは心の中で相棒を……すごく、傷つけてしまった……」
 城之内は手を握る力を強くする。大丈夫だ。
「…相棒に嫌われたら、オレは、生きていけない…」
 遊戯の声が震えている。そんな事はない。遊戯が遊戯を嫌いになるなど、あり得ない。
「…自分の心の部屋に閉じこもって…出てきてくれないんだぜ…。謝る、ことも、できない…」
 遊戯は今にも泣き出しそうな声だった。小さい肩が細かく震えて城之内の握る手に伝わってくる。
「どうしたら、オレはどうしたらいいんだろう、じょうのうちくん…」
 どうしたらもこうしたらもない。謝って謝って誠意を尽くせば、きっと遊戯は許してくれる。海馬など謝った素振りさえないのに、遊戯は海馬を助けようとした。
 ならば半身であるこの遊戯の気持ちが届かないはずがない。
 城之内は遊戯の小さな手を、痛い程握るしかなかった。

 いつの間にか給水塔の音は止んでいた。
 城之内は詰めていた息を吐き出し、手を緩める。
 色々言いたい事はあったが、既に遊戯は気が付いていると思った。城之内はただ遊戯の苦しみを少し負担しただけだ。何があろうとお前の味方だと、勇気づけるために。慰めの言葉をかけたり、アドバイスをする気はなかった。
 ただ一つ、気になる事があったので聞いてみた。
「…嫌なら言わなくてもいいけど、ケンカの原因は何なんだ?」
「……海馬だぜ…」
 城之内は納得した。どんなに仲の良い二人でも、海馬に関しては百八十度意見が違う。どちらの遊戯も強情だ。
「……相棒は海馬と「ゲーム」をしてるんだぜ…」
「ゲームぅ?」
 思わず城之内は大声で確認してしまう。遊戯が「しっ」と人差し指を口元に立てたので、慌てて口を押さえた。
「…今海馬は毎日学校に来てるだろう? あれは「学校に来た日を合わせて一ヶ月間、無遅刻無欠席、早退も無しで体育も掃除もみんなと同じようにする」、と言うルールの「ゲーム」なんだぜ…」
「うわ〜…何やってんだよ〜。海馬のヤツ、何か理由があるだろうとは思ってたけど…」
 ガシガシと城之内は頭を掻いた。
 遊戯は項垂れる。
「城之内くんには、迷惑をかけてすまなく思ってるんだぜ…」
「いや、そうじゃなくてだな。海馬の事だ。ただでそんな「ゲーム」をお前とするはずないだろ〜」
 正確に言えばもう一人の遊戯が海馬と「ゲーム」をしているらしいが、城之内にとってはどちらだろうと心配なのは同じだった。
「海馬が学校に来るようになって――もう二週間以上は経ってるよな? 海馬が一ヶ月ホントに来たら海馬の勝ちって事か? …もし海馬が勝ったら、どうなるんだ?」
「……オレは…大事な物を、失ってしまう……」
 縋るような遊戯の眼差しに城之内は堪らない気持ちになった。普段の遊戯ならまだ見慣れている分、「泣き虫め〜」と軽口でその場の緊張を緩和出来る。彼がそんな顔をするのは反則だ。「お兄ちゃんに任せろ!」とマジで言ってしまいそうになる。
 城之内は急な動悸を誤魔化すように彼の顔から目を逸らした。
 遊戯の白いシャツが妙に眩しくて、改めてパズルが無いことに違和感を感じた。
「大事な物って……もしかして、パズルの事か? まさか、千年パズルを賭けに使っちまったのか?」
 遊戯は何も答えない。
「あちゃ〜」
 城之内は空を仰ぎ頭を抱えた。
 どういう経緯でそんな事になったのかは分からない。だが、それで二人がケンカになったのなら当然だと思った。
 海馬にパズルが渡ってしまったら、遊戯は絶体絶命だ。もしパズルを砕かれて海に投げ込まれでもしたら――。
 城之内は想像とはいえ考えただけでも怖気が立った。
「で、でもよ、その「ゲーム」に海馬が負けちまえば何の心配もいらねーんだよな!
「そうだ! 海馬が学校に遅刻するように、あいつの家の前の道にまきびしでもまいとくか!」
 我ながらいい案だと浮かれる城之内に、遊戯は首を振る。
「そんな汚いやり方、出来ないぜ…」
「…そ、…そうだな…。いくら海馬でもゲームとなると真剣だからな」
 他に何か汚くない作戦がないかと城之内は考え込む。
 元々城之内は思考が得意なタイプではない。あれこれ策を口に出しては「いや、やっぱダメだ」と頭を掻きむしる。
 そうこうしていると、予鈴の鐘が鳴り出した。城之内は反射的に腕時計を確かめる。いつの間にか朝のSHR前だった。
「うわ、もうそんな時間かよ〜。どうする? 遊戯」
 城之内はこのままサボリを決め込んでも平気だが、遊戯は先日さぼった事を担任から家に連絡され、母親にこってり叱られたらしい。

――じいちゃんが「男の子はそれくらいがいいんじゃ」って言ってくれたから、一時間で助かったんだけどね〜。
 
 そう言っていつもの遊戯がぺろりと舌を出したのは、昨日の事だ。
 彼は城之内の問いかけにすぐ返してきた。
「戻ろうぜ。学生は学校で勉強するのが本業だぜ」
「違いねぇ」
 学校で仕事をしている海馬への皮肉だろう。
「……城之内くん、ありがとう。オレの話を聞いてくれて。……随分、気が楽になったぜ…」
「水くせー事言うなよ。後で海馬を負かす手を考えようぜ! パズルは遊戯の宝物なんだ。海馬なんかにみすみす奪われて堪るかってんだ!」
「城之内くん」
 階段を降りようとした城之内は、遊戯に呼ばれて立ち止まった。 遊戯は躊躇った後、小さな声で頼み事を言った。
「…さっきの話は本田くんや杏子には、秘密にして欲しいんだ。余計な心配をかけたくないぜ…」
 みんな話を聞いても迷惑とは感じないだろう。むしろ黙ってるなんて薄情だと怒り出しそうだ。
「いいぜ。今のはオレとお前の、二人だけの秘密だな。さ、急ごうぜ!」
 城之内は階段を駆け下りる。遊戯はそれに続いた。
 遊戯に言われなくとも城之内は秘密にするつもりだった。遊戯は皆に心配させたくないのと同時に、恥ずかしがっていたから。 デュエルの時は誰よりも頼もしい彼が、俯き気味に頼み事を言うなど、それ自体秘密にしたかった。
 早く二人が仲直り出来ればいい。 
 城之内は無性にもう一人の遊戯と会いたくなった。
 こちらの遊戯も大事な「親友」だが、実は少し緊張する。
 まだ遊戯の手の感触が生々しかった。普段の遊戯とはプロレスごっこなどで、手ぐらいしょっちゅう触っている。だが、こちらの遊戯の手だと思うと、未だにドギマギしてしまう。
 城之内は自分でも変だと思ったが、深く考えない事にした。


 城之内と遊戯が立ち去った後、一人の男が給水塔の影から屋上へ姿を現した。
 今日彼が給水塔の穴場にいたのは偶然だった。早く来て暇だったので、お気に入りのこの場所で童実野町の景色を眺めていたのだ。

 彼はその時、自分の力ではどうにもならない壁に突き当たり、悩んでいた。
 海馬を見ていると同じ年なのに余りにも違いすぎて、卑屈になってしまいそうになる。周りの生徒を「ゴミ」と呼んで憚らない海馬に、彼は憤りよりむしろ憧れていた。
 己の悩みなど海馬には取るに足らない小さな物だろう。彼に手に入れられない物など有り得るのだろうか。
 ぼんやりそんな事を考えていると、誰かが屋上にやってきた。 秘密の場所を知られたくはない。
 彼は息を詰めて様子を窺った。
 給水塔のモーター音が始まった。これがある間は不快でイライラする。だが、屋上に来た者にはこちらの気配は分からない。
 彼はそろそろと移動して屋上に上がる戸口の方向へ近付いた。
そのうちモーター音が止まって聞こえてきたのは、同じクラスの城之内の声だった。
 彼は息を殺して聞き耳を立てた。所々聞こえ辛かったが、城之内の会話の内容から相手は遊戯で、遊戯が海馬とゲームをしている事が分かった。
 遊戯は海馬が学校へ来る理由を知らないと言った。騙されていたのだ。
 随分ふざけた話だと彼は憤った。海馬とそんな賭をして、クラスの和を悪戯に乱した遊戯へ反感を覚えた。
 海馬と遊戯は友達ではないが深い結びつきがある。海馬は一昨日の騒ぎの時、遊戯を侮辱し貶めたが、何か裏があっての事だろうと考えていた。
 何よりも自分の時間を他人に消費されるのが嫌いな海馬は、遊戯のために英語の宿題をした。
 海馬には遊戯を虐めるのも親切にするのも、同じなのではないのかとさえ思う。まるで好きな女の子に素直になれず虐めてしまう小学生のように。さしずめ海馬にとって城之内は、遊戯を守ろうとする「番犬」と言った所だろうか。
 そんな事を思って彼は「バカバカしい」と苦笑した。二人は男同士だ。
 だが、彼は海馬が久しぶりに現れた自習時間に言った言葉を思い出した。

――遊戯、オレのモノになれ。

 彼もその友達も、海馬は遊戯をいつでもゲームに付き合わせられる「奴隷」にしたくて、そんな事を言い出したのだと思っていた。しかし、もしそれに性的な意味が含まれていても、つじつまは合うような気がした。
 何しろ海馬は学校一の美少女を鼻にもかけなかった。
 遊戯は決して女の子のような顔ではない。小造りな顔は目が大きくて、例えるなら町中でよく見かける雑種の猫っぽい。
 遊戯と仲の良い獏良の方が髪の長さを引いても遙かに「美少女」だ。獏良ならまだしも遊戯では、普通は誰もそんな事を考えないだろう。
 しかし、「たかがゲーム」と言いながらも、遊戯は海馬が唯一認め、ライバル視する人間だ。常人ならざる海馬だからこそ、遊戯に惹かれているのだとも思えた。
 彼の顔に不適な笑いが浮かんだ。いつになくこの推測には自信があった。
 
 彼は本鈴が鳴る前には教室に入ろうと歩き出した。
 例え海馬の気持ちの予想が外れていても「ゲーム」の話は真実だ。
 彼の脳裏に父の姿が浮かんだ。自分の過ちだと我が身を責め、彼にすまないと項垂れた背中を。
 彼は父親に話しかけるように呟いた。
「……何とか、なるかも知れないよ。父さん…」



     
■今回から視点の入れ替わりが多くて分かりにくいかと思います。すいません。もうこれ以上どうしたらいいのか…。