奪われてもいいんです




 ピリリと甲高いアラーム音に、それまで黙って様子を伺っていた綱吉が手を差し出してくる。ベッドに横たわっていた獄寺は、舌の付け根に挟んでいた体温計を取ると表示を確かめた。
 38度2分。普段どちらかといえば体温の低い獄寺にとって、寝込んで当然の体温だ。これを見せれば綱吉は心配しいっそう獄寺を病人扱いするだろう。見せたくないが言い訳が見つからない。
 そんな僅かな逡巡に体温計を奪い取られた。
「やっぱり熱あるじゃん!」
 体温計の表示を目にした綱吉の口調には棘がある。熱を計る前に獄寺がさんざん『大丈夫です熱なんてありません』と空元気を見せたからだ。恋人同士だというのに未だ妙な距離感のある獄寺に、綱吉は仕方ないと諦めつつも怒っていた。当然続けた言葉は有無を言わさぬ物になる。
「今日は一日大人しくベッドで寝てること。でかけるなんて絶対ダメ!」
「そんな……今日は久しぶりのデートなのに……映画、10代目が楽しみにしてたやつなのに……」
 綱吉に宣言されて、獄寺はたちまち涙目になった。自分でも格好悪いとは思うが普段から綱吉に対する感情の起伏はコントロールできないし、熱のせいもあるのか視界が歪んで頬を伝う液体に余計情けなくなる。
「な、泣かないでよ獄寺君っ」
 綱吉が慌てて側にあったティッシュを数枚引き出して目元に当ててくる。顎まで濡らした涙を拭きとった綱吉は優しく囁いた。
「もしこれが逆の立場だったら、獄寺君だってオレを連れだそうなんて思わないだろ? 映画なんていつだって観られるんだし、今日はオレ、獄寺君の看病するよ。その方がずっと一緒にいられていいじゃん」
 宥めるように柔らかく髪を撫でられる。獄寺は再び目を潤ませた。あるじが気遣ってくれるのが申し訳なくも嬉しくて。
 綱吉はあふれた獄寺の涙に唇を寄せ吸いとると、頬や額に何度も口付けを繰り返した。獄寺の胸は嬉しさとトキメキでドキドキしたのだが、熱のせいで顔色はそれまでと同じ薄紅色のままだった。
「オレこれから家戻って氷枕と薬持ってくるね。ついでに食べ物とかも買ってくるから、しんどいだろうけどもう少し我慢してて」
 ちゃんと寝てないと怒るからねと釘を刺し、綱吉は名残惜しげにもう一度頬にキスを落として腰を上げた。
 鍵を掛けマンションをでた綱吉の足音が小さくなっていくのを、獄寺は懸命に捉えようとした。けれど、集中すればするほど部屋全体が回っているような感覚に包まれる。
 獄寺はだるい腕を動かして、綱吉が枕の側に置いてくれたミネラルウォーターのペットボトルを首筋に当てた。火照った体に心地よい涼感が、いつもと違う己の感覚を普段に戻してくれるような気がした。

 今回の三連休、綱吉はリボーンのだした課題や家の予定などで『休みなのにちっとも休めないよ』と愚痴っていた。それが急に『あした、午後からになっちゃうけど暇ができたんだ。獄寺君の予定が空いてたら映画でも行かない?』なんて誘って貰えて、獄寺は即承諾した。綱吉が誘いの電話をくれたのは既に夜だったが、久しぶりのデートに新しい服をと買い物にでかけて、自分の服ばかりか綱吉に何かプレゼントできる物はないかと人通りの多い繁華街を長い間うろつく程に浮かれていた。途中、妙に喉がいがらっぽくなり咳き込んだが煙草の吸いすぎかと気にもとめなかった。けれど、今思えばその時に風邪の菌を移されたのかもしれない。
 今朝は起きると目眩がして立ち上がることもできず、ベッドから転げ落ちるようにしてとにかく着替えをとクローゼットの前まで這った所で、気付いたら泣きそうな顔の綱吉に抱きかかえられていた。
 待ち合わせの場所に現れない獄寺を不審に思った綱吉は何度か携帯を鳴らしたが無反応なので、獄寺の家まで来て合い鍵で入り倒れている獄寺を見つけたのだと言った。それからは『熱があるよ』『いえありません』の応酬で、『白黒つけよう』と綱吉に体温計をだされたのだった。
 綱吉はこのアクシデントに獄寺を責めることなく労ってくれた。だからこそ獄寺は自分の不甲斐なさがやりきれなかった。



 あれこれ考えながら目を閉じている間に自然と眠っていたのだろう。獄寺はキッチンから聞こえる物音で目覚め、次いで自分の額に絞ったタオルではなく、市販の熱を取るジェル付きシートらしき物が乗せられていることに気付いた。綱吉は言葉どおり家へ戻り、獄寺の看病をするために戻ってきてくれたのだ。
 聞き耳を立てているとビニール袋を漁る乾いた音や、皿やさじを用意する音、チーンと高い音は獄寺の家になくてはならない電子レンジだ。がたがたと棚を確かめたりそれらの動作に合わせてスリッパの足があちこち動いている。時々、「あれ?」だの「おかしいなー」だの、思わずでてしまったと分かる独り言も聞こえてきた。
 獄寺は目を閉じ自分のために食事の用意をしているあるじの姿を想像した。込み上げる感謝と歓びで胸が熱くなるばかりか息苦しい想いも沸いてくる。
 にじんだ涙を拭っていると綱吉がそうっとドアを開け様子を伺いにきた。
「あ、獄寺君起きたんだ。ゴメンね。オレけっこう物音たてちゃったからうるさかったよね」
「……っ」
 そんなことありませんと言いかけて声がのどに絡みつく。獄寺は咳き込みながらどうにか頭を振って返事をした。
「無理しなくていいから、ちゃんと寝てなよ」
 起きあがりかける獄寺の身体をやんわりとベッドに押し戻し、綱吉は恋人の火照った頬を撫で髪を梳いた。
「おかゆ作ってみたけど食べられそう? 他にはフルーツゼリーと桃缶もあるけど」
「お……かゆ、を」
 お願いしますと獄寺の唇が声なく動くと、綱吉はにっこり頷き、部屋をでる間際ひょいと振り返った。
「ご飯の時に氷枕しようね」



「レトルトのやつをレンジでチンしただけだからあんまりおいしくないかもだけど」と言いながら、綱吉はかゆをすくったレンゲにふーふー息をかけ、「はいあーん」と無邪気に差しだしてきた。
 獄寺は予想できていた展開とはいえさすがに気恥ずかしく、なかなか素直に口を開けられない。わざわざ綱吉に手ずから食べさせてもらうほどの重病ではないのだと身を起こそうとすると、目眩がして支えの腕がふらついた。
「ほらほら、無理しないの」
 再びベッドに寝かしつけられ、頭部に氷枕のひんやりとした感触と眼前の心配そうな恋人の表情で、やっと獄寺は観念して口を開けた。
「どう? おいしい?」
 口の中のかゆを飲みこみ獄寺が小さく頷くと綱吉はあからさまにホッとした顔になった。
 家に戻った綱吉が『獄寺君が風邪で寝込んでるんだ』と伝えたところ、奈々はてきぱきと看病に必要な道具を揃えてくれ、氷枕や市販の薬はもちろん、スポーツドリンクや桃缶にフルーツゼリーなども、いざという時の常備品からだしてくれたらしい。
「おかげでオレが買ったのはレトルトのおかゆとか自分用のお菓子ですんじゃった」
 得したと呑気な綱吉とは反対に、獄寺は奈々にまで己の情けない現状を知られてしまったばかりか気を遣わせることになってしまいかなり落ちこんだ。
 そんな獄寺の思考が分かったのだろう。綱吉は慌てて、
「困った時はお互い様なんだから気にしないでって母さんが言ってたよ。それどころか母さん、おかゆ作るからとか言いだして、この際自分が看病に行くぐらいの勢いだったから止めたんだ。せっかく獄寺君と二人きりなのに邪魔されたくなかったし、おかゆができるの待ってたら遅くなるから。母さんの作ったおかゆの方がレトルトよりおいしかったと思うからその辺は獄寺君に悪いんだけどさ」
 綱吉は獄寺から視線を逸らし気味にして早口で説明した。綱吉は奈々の作ったかゆの方が獄寺も喜んだに違いないのに自分の都合で断ったことを気にしているらしい。
「……すごく、おいしい、です。じゅうだいめが、つくって、くださったんですから」
 綱吉が思うとおり、レトルトよりも奈々の作ったかゆの方が遙かにおいしいだろう。正直なところ獄寺には熱のせいで味はよく分からなかったが、綱吉がわざわざ自分のために小遣いを使い買い求めこうして食べさせてくれているのだから、レトルトであろうと充分心癒されるご馳走だった。
 獄寺は綱吉に安心を与え感謝の気持ちを伝えるためにも恥ずかしさを堪えて口を開け、お代わりを強請った。
 かゆとフルーツゼリーを食べ、薬や水で薄めたスポーツドリンクを飲んだあとは「ゆっくり休まないとね」と綱吉に念を押されて、獄寺は渋々目を閉じた。食事をしている間に朦朧としていた意識はクリアになり、自力でトイレにも行けたので、ますます病人然とベットに寝ているのは不本意だった。自己分析ではあるけれど、先ほどまでのだるさは脱水症状のせいだと思う。食事のあとで熱を計り直すと最初の時よりずっと下がっていたのだ。
 綱吉を放って自分だけ安穏と寝ている気分になれないのは獄寺の性分だ。しかも今日は本来なら久しぶりのデートだったはずなのだ。
 獄寺は大人しく目を閉じたものの、綱吉がこれからどうするのか気になって聞き耳ばかりを立ててしまう。獄寺の家には綱吉の好きなゲームも漫画もない。退屈していないだろうか、こんなことなら一人で映画に行けば良かったと思っているのではと、じっとしていると悪い方悪い方へと妄想を育ててしまう。
 静かな部屋で横になっていると綱吉の気配が薄まった気がして、獄寺はそっと薄目を開けてみた。
 心臓が飛び上がる。目の前に綱吉の顔があった。
「あっ、ごめん驚かせちゃった。獄寺君さっきまで寝てたからすぐには眠れないんだろ? 寝たふりしてるのも可愛いなって、ついじっと見てたんだ」
「い、いえ……あの、10代目、退屈じゃないですか?」
 引いたはずの熱がぶり返したのか顔が熱い。
「ぜんぜん。獄寺君といられて楽しいよ。オレ、読みたい雑誌持ってきたしおやつもあるし、獄寺君の様子見ながら適当にやってるから、獄寺君は気にしないでゆっくりしてて。欲しい物とかオレにして欲しいことがあったら遠慮せずどんどん言ってね」
「……はい。すみません」
 綱吉は「獄寺君は遠慮しいだもんな」と言いながら何度も獄寺の髪を柔らかく梳いた。綱吉の丸くて柔らかい指先が頭皮に心地よい刺激をくれる。綱吉は獄寺の汗ばんだ髪の感触が気にならないのか、普段よりまとまりやすいそれを耳の上から後ろへと流していく。
「……獄寺君は髪の生え際まできれいだね」
 ため息をつくように囁かれ、獄寺はぎゅっと目を閉じた。
 綱吉はよく獄寺のことを褒めてくれるのだが、容姿についてそんな声を出す時は情事の最中が多い。それでなくても綱吉の顔を間近に見て髪を触られたせいで、獄寺は未だに胸の高鳴りを静められないでいる。綱吉は看病をするために獄寺に付いていてくれているのだ。先ほどの声も無意識にでただけで、きっと深い意味などない。それなのに、反応仕掛ける己の身体が浅ましく恥ずかしかった。
 そっと頬と耳の上の生え際に柔らかい感触がした。綱吉の口付けだと分かった時にはぬくもりは去ったあとで、もっと欲しいと、本当は別の所に欲しいと強く思ったのだけれど、せがむことはできなかった。
 



 獄寺はそれからしばらく綱吉が雑誌を読んだり菓子の袋を開けたりする音を聞いていたが、やはり自分が思うよりは身体が休養を必要としていたらしく、とろとろと心地よい眠りに誘われていった。
 再び目が覚めた時には部屋の中は暗く、仰ぎ見た窓はカーテンが引かれ隙間から街灯の明かりが差していた。予想よりも長い間眠っていたことに驚き、獄寺は気だるい身を起こす。
 枕元の時計は八時前。キッチンは静かで人の気配がなかった。
 おそらく綱吉はよく眠っていた獄寺を起こさないように黙って帰ったのだろう。カレンダーでは明日も休日だが、今日の午後は予定外の空きができただけであるじは明日も忙しいはずなのだ。せめて今日の礼を言って見送ることぐらいはしたかったと獄寺が暗い部屋と同じく落ちこんでいると、ざあっという水音が聞こえてドアの開閉する音のあと、なるべく密やかにと配慮された足音が近づいてきた。
「10代目?」
「うわっ、起きてたんだ獄寺君」
 獄寺が声を掛けるとドアの隙間から寝室を伺おうとした人影が目に見えて飛び上がった。
「まだいてくださってたんですね、もう遅いのにすみません」
「何でそうやって遠慮するかなー」ドアを大きく開き入ってきた綱吉は小さくぼやいた。
「寝てたからあんまりお腹空いてないかもだけど、薬飲むためにはちょっと食べた方がいいと思うんだ。お昼は塩味だったから今度は卵入りのおかゆ食べる? それとも桃缶とかの方がいい?」
「あ、オレもう平気なんで大丈夫っス。今日は10代目のお手を煩わせてすみませんでした」
「……すみませんは禁止!」
「は?」
「オレ言ったよね? もし逆の立場だったらどうするって。オレ、いっつも獄寺君に助けてもらってばっかりだから、獄寺君は辛くて大変なのに不謹慎だけど、ちょっとでも獄寺君の助けになれたって思って嬉しかったのに……謝られてばっかりだ」
「すみ――……ゴメンナサイ」
「ゴメンナサイも禁止! とにかく謝らないで」
「……」
 獄寺は反射的にでそうになった言葉を飲み込みうなだれる。
 綱吉は獄寺の側に来るとベッドの縁に腰を掛け、そっと獄寺の手を握った。灯りのない部屋で街頭の光にも背を向けた綱吉の表情は獄寺に分からない。しかし、強く握られた手の温かさに促されて、獄寺は辿々しくも言葉を伝えた。
「今日は、いろいろ――こんなに遅くまで、ありがとうございます」
「……うん。お礼を強要してるみたいでちょっと気が引けるけど、謝られるとオレ、ホントはゆっくり休めなくて邪魔なんじゃないかって、そう獄寺君が言えないだけなんじゃないかって思ったりするんだ」
「そんなこと、ありえません。10代目がいてくださったおかげでもうすっかり元気ですよ。もう遅いですが大丈夫ですか? 明日は修行に行かれるんですよね?」
「それなら大丈夫だよ。あしたも獄寺君の看病についていたいって言ったら、母さんからもリボーンにお願いしてくれてさ。だから獄寺君と一緒にいられるんだ。次の休みにその分持ち越しだけど」
 ふふふと笑った気配のあと、綱吉の顔が寄せられて頬にキスされた。それまでより強く手を握られ綱吉が囁く。
「だから、今夜は泊まっていいよね」
「ははははいっ」
 綱吉はあくまで獄寺の身を心配しているだけなのだ。病人に手をだすほど見境がないような人間ではないことくらい、普段から綱吉を崇め奉る勢いの獄寺は分かっている。それなのに二人きりの夜だと期待してしまう自分が恥ずかしい。
 僅かな期待で胸をときめかしていた獄寺は、綱吉の「また熱でてきたみたいだね」という言葉に心の中だけで弁解をした。

 






■20081122up(080302無料配布本「ACCIDENT」を改題)